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第六章 石炭の終焉とセメント
石炭の終焉と麻生セメントの発足

58.石炭からセメントへ

そもそも麻生セメントの源流は、大正十一年〈一九二二〉十月に、太吉が九州産業鉄道株式会社〈大正八年創立〉の社長に就任したときにはじまる。
この会社は、福岡県田川郡後藤寺町の船尾山および松尾山一帯にある、良質の石灰石資源の活用と、筑豊の横断鉄道の建設を目的として創立されたものであったが、石灰石および石灰のみの生産では会社に発展性がなく、良質豊富な資源を活用して新たにセメント事業を興すべきであるという太吉の決断によって、昭和八年七月、九州産業株式会社セメント工場〈現田川工場〉の建設が開始されたのである。同年九月には九州産業鉄道と九州産業の両社が合併して、『産業セメント鉄道株式会社』〈社長麻生太吉〉が発足し、太吉の狙いが見事に当たって、同社はその後順調な発展を遂げ、ついて今日の麻生セメントへと発展成長したわけである。

 

当時、太吉はすぐに炭鉱業の将来を見越して、いつかは炭層のつきるときがくると考え、その時の用意にと次々と人を派してセメント事業開始の事前調査に当たらせ、当時としては考えられない、二百ヘクタールもの石灰石の山を所有したのであるが、これが四十五年後、全麻生のヤマが閉山したあとの、従業員を救うことになったばかりでなく、麻生の屋台骨を支える基幹事業となったのである。
そして前項で述べたように、昭和四十一年〈一九六六〉十一月、麻生産業からセメント部門を分割し、資本金十億円の『麻生セメント株式会社』が新発足するのである。

 

その当時のことを回想して、太賀吉会長はこう述べる。
「石炭と心中させないためにセメント部門を分離独立させたのではないかという趣旨の質問を各方面から受けたのですが、それは全く違うのです。勿論石炭が閉山傾向にあることは観念していましたが、その反面では、まだ石炭はやれると思っていましたので、セメントの独立性を図ろうと考えたわけです。
つまり炭鉱の方から申しますと、セメントは良いから全社的な資金も、働く人間の将来もなんとかなるだろう、またセメントサイドでは炭鉱が経営の足を引っ張るからやりにくいと、両方にそれぞれの不満なり依頼心がある。それを断ち切りたい。それに石炭とセメントでは企業体がまるで違いますから、だいぶ前から炭鉱は炭鉱なりに、セメントはセメントなりに独立独歩させたい、とチャンスを狙ってもいたのです。

 

しかし、当時としては、分割措置が“うまくセメントを石炭から切り離して逃がす”というふうに考えられたのも当たり前かもしれません。

しかしセメントをこれだけ大きくしたのは、石炭のおかげであると言う考えから、セメントを分離しても、セメントの借金は炭鉱会社が全部連帯保証をしております」
セメント部門はその後、発祥の母胎である田川工場の合理化とともに、最新の所設備を備えた新鋭接岸工場である苅田工場の誕生によって、セメント業界における中堅会社として堅実な歩みを続けている。
すなわち、田川工場ではセメント年産八四万トン、石灰石二八八万トン、岩粉六万トン、スカーライト二、四〇〇トンを生産し、また苅田工場では二四〇万トンにも及ぶセメントを生産、関西以西にわたる広帆な地域に出荷している現状である。職員、従業員は両工場を中心に、一、八七四名に達している。

 

また、石炭終末と前後して経営の多角化が急速に進められ、現在ではセメント産業を基幹として、四十社に及ぶ関連会社を擁し、さらに昭和四十八年以降は新進気鋭の太郎新社長を迎えて“新生麻生”として、百一年目への躍進に巨歩を踏み出しているのである。

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