麻生百年史

電気業界への進出

42.昭和石炭の創立

<昭和石炭の設立>

撫順炭問題が一応の解決をみたので、幾百度となく往来した関門海峡の七月の汐風に吹かれながら、太吉は久々に福岡に帰ってきた。そして親しい人や関係者、それに新聞記者たちに囲まれて、撫順炭問題の経過をはじめ、今後の業界の在り方から自身の抱負、意見などを珍しく懇切に語ったのである。それは五十年間にわたって闘ってきた炭業生活から得た生きた言葉でもあり、また国を憂う叫びでもあった。
「―(前略)―石炭は地中の埋蔵物を掘りとっていくのであるから、取れるだけでは次第に減る。知識や技術の進歩で、採炭の範囲が広がるとはいえ、いつかは尽きる時が来る。この点は、農産物や製造工場と根本的に意味の異なった産業であります。だから、石炭の採掘には一つの理法を重んじてかからねばならぬ。採るだけとって、売れるだけ売る。後のことは考えない。そういうことは許されません。これは内地炭も撫順炭も同じことです。
今度の問題についても、根本にこの意味を考えて、解決を計らねばならなかった。撫順炭は内地炭の予備として考える。内地炭は年産三千万トンを越えることは困難であろう、需要がそれよりずっと多くなった時、盛んに撫順炭を移入して来ることにする。わが国工業の趨勢から見て、そういう時代はまもなく来るから、その時思うさま撫順炭の効能を発揮して貰うのです。
私は二十余年前、内地炭はむしろ採掘を中止して、一朝有事の日の使途に備え、平時は撫順炭を移入して内地の工業に使うがよいと考えたことがあります。しかし今では情勢が変わって、日本が満鮮より切り離されて、孤立するようなことは全く無くなったから、内地炭を保留しておく必要はない。却って平常は炭業全体の健全なる発展を促しつつ、内地工業の繁栄を計るようにしなければならぬ。満州炭はいよいよの場合の予備石炭です」
ここまで話して、一同の顔をぐるりと見廻した後、渋茶でちょっと喉をしめし、なおも続けた。
「そして聯合会が成立以来、満鉄に対して協定を申込んだのも、この精神によってのことですが、相手さんは大資本を擁し、石炭では損をしても構わんという態度なので、なかなか思うように行かず、とうとう今度のような問題が起こってきたのです。今度はどうにか解決しましたが、こんなことを毎年繰り返してはいけません。根本策を立てなければ、将来の不安は除かれない。私はそれに骨を折りたいと思う。根本策というのは、炭業の統制です。
日満の間には、全く統制というものがない。目先の協定や申し合わせはやってきたが、根本が無秩序、無統制です。現に十余年前の大正十年の内地の出炭量は、二千六百余万トンであったが、昭和六年には二千五十万トンに減じている。これに反して満鉄では、大正十年に二百八十万トン足らずであったものが、昭和六年には、六百七十万トンになっている。二倍半の大拡張です。
石炭という基礎産業、鉱業その他の食物の生産をこんな無統制下に放任しておくということは、一国の経済政策からみて大変な禍いです。しかし、日本の内地にさえ完全な統制が行われなくて日満統制は考える方が無理です。―(中略)―
幸い、大正十年に全国同業者を統合した、聯合会が出来ました。つまり統制の土台が出来たわけです。しかし連合会の中には、大鉱山主もあり、小鉱山主もいる。その利害は必ずしも一致しなかったり、また地方地方で事情も違うし、要求も異なるというわけで、今日まで思うような働きも出来なかった。しかし今度の事件が動機となって、みんないろいろ考えさせられたし、心構えも変わったであろうから、これからは充分な働きも出来ると思います。
大体自由企業で、各人が勝手に発達してきた事業を、一つの統制で締めくくっていくには、お互いに譲り合わねばならぬ。互譲の精神を欠いては、共同の計画は成り立ちません。それでは共倒れの危険に晒されているようなものです。炭業界の統制も、結局互譲の間からお互いの大きな繁栄を計っていくという、思慮や見透しがなければ成り立ちません。内地の炭業者がお互いに譲り合う。次に満州側と内地側が譲り合う。そうなるの他ありません。これが自分のためでもあるし、業界のためでもあるし、国家経済のためでもあります。民間の人々も政府の当事者も、よくここの意味を呑み込んで、産業統制の大成を急ぎたいと思います」
と、結んだが、そこには老いの翳りは微塵も見られず、寧ろ今後の自身が成すべき仕事、使命ともいうべきそのことに、燃え立っている感じがあった。
そして、翌八月再び上京し、いよいよこの炭坑業統制の根本策の実際活動に入っていったのである。
炭業統制は生産と販売との両面において行われなくては無意味に近い。特に撫順炭が内地市場に侵入し、価格を圧迫する危険が伴う最近の事情に鑑み、販売の統制によって価格の妥当を計ることが、尤も緊要である云々―という主旨に基づいて、太吉は副会長の松本健次郎をはじめ、業界の有力者と連日審議を進めた結果、漸く同年十一月二十六日に、資本金五百万円の昭和石炭株式会社の設立に漕ぎ着けたのである。社長には松本健次郎(明治鉱業)が、専務に吉田慶三(北海道炭鉱)、その他三井、三菱、住友、大倉、古河、貝島、麻生と大手からそれぞれ取締役、監査役、相談役などが顔をならべ、名実ともに全国大手石炭の共同販売会社が実現したわけである。
太吉はこの設立を心から喜び、「これでどうやら、わしの理想への第一歩を踏み出した」と、眼を細めた。そして翌八年(一九三三)聯合会長を辞任して、顧問の閑職に退き、九州に帰ってきたのである。

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