1 麻生百年史の掲載にあたって
『麻生百年史』は、昭和四十八年(一九七三)六月一日、
飯塚市において「麻生創業百年記念式」を挙行の際、その記念事業の一環として刊行されております。
戦後、当社における本格的な社史は本書が初めてのことでありました。
本書は、当社の基礎を築いた”麻生太吉”の誕生と草創期にはじまり、
石炭業時代および各事業への展開、戦中戦後の事業について、
そして、石炭業終焉後の新しい麻生の歩みまでの百年間が詳細に綴られております。
本書の厚みは7センチ以上にもなり、この膨大な記録を、僅々一年半で完成させたことには
当時編纂にあたった方々の並々ならぬ思いを感じざるをえません。
なぜ、このように膨大な記録に至ったかという経緯を追いますと、
これらの記録等は、当社麻生のことのみならず、
麻生を生み育てた地元地域の歴史にも及んだことがうかがえます。
刊行当時、取締役社長でありました麻生太郎(現衆議院議員)の「刊行のことば」によれば、
「当社の基盤を生み、当社の成長を大きく包んでくれた”筑豊”全体の歴史をひろく採り入れ、
敢えて言えば筑豊百年史の側面をも浮き彫りにする編集方針を指向した。」とあり、
当社だけの史実として書庫にしまっておくには大変に忍びなく、
ぜひとも筑豊のみなさま、また広くは、世間のみなさまに知っていただければとの思いで
ここに連載記事として掲載することとなりました。
ご興味をいただいた方々に、少しでもご覧いただけましたら幸いです。
※本書に基づき文章を転載しておりますが、ホームページ上、一部表記が困難な部分は
できるだけ本書に近いかたちにて表現しております。ご了承下さい。
2 そのころの日本の社会と筑豊
鎖国日本が世界に門戸をひらいた明治の大業は、内外ともに騒然たるなかで、
新しい国づくりに、かつてない力をださねばならなかった。
それが明治維新であり、この小さな島国の中で、世界に類をみない大変革を、
各分野において、成し遂げねばならぬ道をふみはじめたのである。
まず政府は工部省(明治三年、一八七〇年)を設け、各種の公共事業の管理とその生産、
建設などを直轄、掌握し、その後進国性から徐々に脱皮しつつ、近代工業国家への変貌の道を、
ひたすら歩みつつ、時の世界情勢の必然性から富国強兵政策を中心に、つきすすんでいくこととなった。
明治五年(一八七二)には、「♪汽笛一声新橋を・・・・・・・」、の歌で知られる新橋、横浜間に、
初めて陸蒸気が走り、年を経ずして、京都、大阪、神戸までと相ついで鉄道が開通するようになった。
街にはガス灯が輝き、電信が開通、洋館が街並みを変え、宗教の自由も許され、上下一致して
広く新知識を世界に求め、人心鬱勃として国家の飛躍を期していた時代である。
そして日本の近代化、工業立国への脱皮のエネルギーとなったのは石炭にほかならず、
また明治の産業革命から昭和の戦後にかけての日本の高度工業国家をつくりあげた百年の基礎を支えたものは、
やはり石炭であり、石炭の百年史は、日本の近代国家建設の百年史といっても過言ではない。
まず政府は、明治二年(一八六九)に石炭の開発に関して、次のような太政官布告を出した。
『鉱山開拓の儀は、その他居住の者ども故障なく候はば------府藩県に於ても、旧習に不泥速に差許し申すべきこと』
これは『鉱山解放令』であり、従来の藩の仕組法による。焚石(たきいし)会所の制度を解消したことになる。
つまり今後は、誰でも届出さえ出せば、採掘できる、ということであった。
これによって三池や高島炭坑のようにいち早く英人グラバーなどの指導によって、洋式採炭法をとり入れ、
順調な発展をみたところもあるが、一攫千金を夢見る旧藩士、農民、庄屋たちがわれ先に採掘に奔走し、
ために小坑区が乱立して、いわゆる乱掘時代が現出したのが当時の筑豊の実状であった。
嘉麻、穂波の二郡だけの炭坑をあげただけでも、次のような多数にのぼる。
嘉麻------鯰田(一〇)、勢田(七)、有井(六)、他に一三地域二七カ所。
穂波------大分(一)、中(二)、目尾(二)、他に六地域一六カ所。
さらに遠賀郡では一二坑、鞍手郡は七一坑にものぼり、筑豊炭田全体では、六百をこえる小炭坑がひしめき合っていた。
この乱掘状況を憂慮した政府は、不測の災害も顧慮して、次々と太政官布告を出すに至ったのである。
明治四年四月−自由採掘に身分、資金、資格の審査、制限を加えた。
同五年三月−『鉱山心得』を布告、鉱物はすべて政府の所有物であると明記した。
同六年七月−『日本坑法』が制定された。
これらの法令には、外国人の鉱山所有権と経営参加を認めず、原則として(別子銅山をのぞき)
鉱山採掘権を政府が掌握し、全面的に採掘は許可制とし、生野、佐渡、院内銀山、三池、高島炭坑及び
釜石鉄山などを、官営化したものである。
さらに政府は、この乱掘時代に終止符をうつために、組織的な坑法を打ちだした。
それは、従来のいわゆる露天掘、タヌキ掘などの原始的な採掘法を禁じ、外国人技師と新式機械を導入して、
五〇メートル以上の立坑を掘り、蒸気機関装置により、坑内水をくみだす新方式などを、奨励採用することを命じた。
このようにして『日本坑法』は、明治二十五年(一八九二)六月の鉱業条例の施行まで、
鉱業界を掌握支配し、石炭業界はまたこの期間に、大きな躍進と変貌をとげたのである。
これから以後、昭和三十年代前半まで、つまり初めは明治の産業革命と国運にのって、
戦時中は戦力増強のために、そして戦後に於ては、高度経済成長の波にあおられながら、
石炭は掘りつづけられたのである。
そして遂に昭和三十年代後半の、いわゆるエネルギー革命の直撃をうけて崩壊、閉山に至った筑豊とは、
いったいどんなところであろうか。
『筑豊』の名は、単に地理上の地名を示すだけでなく、三池とともに、輝かしい歴史的な意味をもつ地域である。
この地域は福岡県の東北部にあたり、旧筑前国(福岡藩)の遠賀、鞍手、嘉麻、穂波の四郡に、
旧豊前国(小倉藩)の田川一郡を含む、遠賀川本支流々域のよび名である。
遠賀川流域の石炭採掘は、貞享、元禄(一六八四~一七〇三)にさかのぼり、当時家庭用燃料、
漁船用かがり火、及び製塩用として発展していった。
ここは三池、宇部、高島と相違して、海に面していないかわりに、ゆたかな遠賀川の水運にめぐまれ、
また豊穣な農業地帯をもつ、格好な地理的条件にもめぐまれていた。
まさに石炭採掘地としては、最適の土壌をかねそなえているところである。
そして、人情は厚く、川筋気質ともいわれる、仁侠的気質で結ばれていた。
このような好適地からは、いく人かのすぐれた事業家が、時運にのった風雲児として輩出するが、
その中の一人に『麻生太吉』がいる。
彼の生涯は伝説になるほど波乱に富み、また超俗の風格をそなえ、執念をもって石炭をはじめ、
関連事業の育成発展に生涯を逞しく生きぬいて、”麻生百年”の磐石の基礎をきずいた人物である。