麻生百年史

石炭

燃える石

4 燃える石の発見
石炭発見の歴史は、非常に古くさまざまな伝説や古文書に見うけられるが、確かな文献はきわめて少ない。日本書紀や神功皇后、弘法大師の時代にもさかのぼることができるが、その時代に本当に発見されたかは定かではない。口碑伝承として、最も古いとされているものは、三池地方における発見である。
――文明元年(一四六九)一月十五日、三池郡稲荷村(とうかむら。現在の大牟田口にあたる)の百姓伝治左衛門が近くの稲荷山にたきぎをとりにいき、枯葉を集めて火をつけると、突然地上に露出していた黒い岩が燃え出したのである。これが”燃える石”つまり石炭の発見である、と伝えられている。これ以後、この附近の村人たちは、燃料として従来の薪やすみのかわりに用いるようになった。(安政六年・一八五九。橋本屋富五郎発行『石炭由来記』外などから)

また文明十年(一四七八)三月、筑前遠賀郡香月村の畑部落の金剛山で土民が黒い悪臭を出しよく燃える石を掘り出して献納、城主の杉七郎太夫興利はこれをかがり火として利用している。同じ文明十年には、遠賀郡垣生村で五郎太という者が、焼肥(ちりとかほこりなどをむし焼きにした肥料)をしていた時、偶然わきにあった石に火が移り燃えだした。このことは後に石炭を運搬する小舟を彼の名をとって“五郎太夫”というようになったといわれる。

さらに高島においては、元禄八年(一六九五)五平太という老人が魚釣りなどを楽しみにしながら、悠々自適の生活を送っていた。ある日、あまり沢山釣れすぎ、持って帰るには老人として量が多すぎたため焼いて少し食べようと思い、小枝などをかき集めて火をつけたところ、その辺りの黒い岩がけぶりだし、しばらくするとちろちろと燃えだし始めたのである。五平太は驚いたが考えた末、その燃える石を持ち帰り、日を改めて藩主に献納した。それで深堀藩の藩主は、宝永七年(一七一〇)藩の事業として製塩の燃料用として使用したところ、火持ちがよく好成績をあげることができたといわれている。(『高島町文化史』) そしてこれが人々の知るところとなり石炭は“燃える石”とともに『五平太』などと呼ばれ、もてはやされもした。

このように石炭にまつわる逸話の数々は、多く庶民の生活の智恵として語りつがれていった。また文献としては『養生訓』『女大学』の作者として著名な儒学者の貝原益軒(元禄十六年、一七〇三)が著した『筑前続風土記』と宝永五年(一七〇八)の『大和本草』がある。 ――燃石。遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像、の処々山野に有之、村人是をほりて、薪代わりに用う。遠賀、鞍手殊に多し。頃年粕屋の山にても掘る……。煙多く臭悪し、といへどもよくもえて火久しくあり。水風呂の釜にたきて尤もよし。民用に最も便なり。薪なし里に多し。是造化自然の助也――(筑前続風土記)。
――石炭本草石部にのせたり。今按日本にも処々に多くあり。其色黒くして漆のごとく、堅きこと石のごとくして光あり。火に焼けば席を照らし、きわめて明なり。―中略―浴桶の小炉にこれを焼いてよし。云々――(大和本草)
またオランダ人医師のシーボルトは、自著の見聞記の『長崎より江戸まで』の中でこう記している。 ――冷水という山嶮を越えて、内野という処に出で、飯塚に向かう。このあたりの住民、地中より黒き石の塊を掘り出して焚く。その臭いくさし――と。

このように石炭の発見の初期は、不思議な石が燃えだしたとしか思えなかったのである。しかしこの燃える石が、人間の智恵でさまざまの過程を経て、近代工業用化までに至る道はけわしく、また多くの人々のきびしい努力の結晶でもあった。そのような人たちの中に生涯を執念のごとくこの“燃える石”にかけた『麻生太吉』を見ることができる。

5 父・賀郎の決意
賀郎は家督を太吉に譲ってから、しばらく家にいて調べものなどに時を過ごしていたが、まもなくこの燃える石に異常なほどの熱意を示し始めたのである。それは石炭の発見以来各方面で研究した結果、その実用化のメドがつきそうになったことと、実際に自身で山からとってきて火をつけてみて、それが長時間燃え続づけることが判ったからである。それでこれは大変な石だ、燃料の革命にならぬともかぎらない、と深く洞察して、周囲の反対を押しきって、これに手を染め始めたのである。しかしそのころはまだこの国では、従来からの士農工商の順でその職業の貴賤上下を差別していたことから余程の決意がなければ実行に移せぬ状況にあった。

さらに石炭主となるのには、まず鉱区を出願するにはどうしても村人いく人かの同意調印を必要としていたことなどの障害があった。しかしいったん決意した賀郎は、そのことには耳も貸さず同調する二、三の者と目尾御用山の採掘に乗りだし初めて石炭鉱業の事業に着手したのである。賀郎五十四歳の時であった。しかし村人たちの大半は大庄屋が石炭掘りに、と驚き半ば呆れ顔で嗤笑する者さえいた。堀屋には嫁にやるのも一思案する、という時代であった。しかし賀郎は、そのような村人には目もくれず、間もなく副戸長の太吉まで誘い入れた。それで太吉は、午前中は戸長役場で務め、午後になると父の石炭掘りの現場にいって、手伝うということになった。狭い村々の噂はそれでいっそう驚きでもちきりとなっていた。 「あの大庄屋と若旦那の二人で、焚石掘りを始めなさったそうな……」「それはたまげた。なんでまあなあ……。気でもふれしゃったのじゃなかろうかのう……」抗道から真黒な顔をして出てくる二人の姿をみては、村人たちはまるで二人を気狂いあつかいにした。しかし二人にはそんな蔭口には耳もかさずなりふりかまわず採炭と闘っていた。というのは、まだすべてが原始的な人力による採炭であっただけにやればやるほど様々な苦難と隘路にぶち当たったからである。

そのころの炭鉱を日帰り間歩とよんでいた。石炭の露頭を探し求め当てると、炭層にそって数メートルずつ掘り進む。坑口は狭く、人一人がやっとかがんで通れるぐらいの穴である。男はすべて六尺ベコで、女はカスリの腰巻か手拭で、巧みに前だけ隠すベコ姿である。そしてスラやセナを使って石炭を運びだすのであった。このスラとセナについて少し説明すると、スラとは狭い坑道の坂をトロッコがわりに人力で石炭箱の底に割り竹などを当ててすべるようにして運ぶことからスラとよばれるようになったものである。セナは石炭箱のかわりに背に畚を担い、そこに石炭やボタを入れて這うようにして運びだすのである。背に担うのでセナといわれるようになった。そしてまた俗称タヌキ堀と呼ばれているのは、タヌキの穴のような狭い坑口から真黒な顔となって這いだしてくる姿がタヌキ同然だということから起こった呼名である。
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