6 最初の機械化
筑豊で最初に機械化に手をつけたのは片山逸太であった。彼は長崎で造船技師をしていた経験から、坑内の水をくみあげる排水ポンプに蒸気汽缶をとりつけたら、と考えたのである。
この機械の試運転の日は村人たちが誘い合い大勢見物にきて、茶店やみやげもの屋などが立ち並ぶという、お祭りのような騒ぎとなった。そして皆が期待と好奇心で、その時のくるのをじっと待ちうけていた。
この実験は明治八年(一八七五)福岡県田川郡糸田の中元寺川のほとりの、小高い丘の上で行われた。その周囲は竹矢来が張りめぐらせてあるほどの、ものものしさであった。そして誰もが、お化けの大太鼓のようにうつるボイラーを、じっと見すえて、異常なほどの雰囲気をただよわせていた。この人達の中に、のちに筑豊の御三家とよばれるようになった麻生、貝島、安川をはじめ、それぞれそのころ小坑主である蔵内次郎、伊藤伝右衛門、杉山徳三郎、帆足義方などの姿も見え、彼等は一様になんとかうまく動いてほしいものだ、と小声で話し合っていた。
彼等にとってはそれこそ背に腹はかえられないほどの切実な問題であった。
その前で今しも、直径約二メートル、長さ約二メートルのボイラーのたき口から片山逸太がせっせと石炭をくべていた。炎はボイラーの後部にまわり、ボイラーの水タンクの中にあるパイプを通って、前部の煙突にぬけるしくみである。
しかし一日目は失敗であった。ボイラーはシュッとも音を立てなかった。
二日目はさらに石炭をたきつけた。夕方ごろになるとようやく“ドットン、ドットンブー”という音とともに、水が少しずつ吹き出してきはじめたのである。人々の顔にようやくほっとした安堵の色が見え、この想像を超えた出来事に、声もなく見とれていた。そしてこれを“ドットンブーさま”と呼び、手を合わせて拝む人達もいた。片山逸太は半ば放心したように、汗と油で真黒になった顔を引きつらせ、涙さえ頬にたらしてみつめていた。だが、この喜びも長くは続かなかった。小一時間もゴットンを続けたのち、ポンプはシューッという音を残して止まってしまった。そして今度は、片山逸太があれこれと必死にあちこちを動かし廻しても、びくともしなくなってしまったのである。
人々は声もなくこの二度の失敗をただ呆然と眺めかえすばかりであった。その中で坑主の一人の貝島は、坑主たちを振り返りながら「とにかくちょっとでも動いて排水できるということは、いずれ動きつづけるという可能性もあることですなあ……」と頷き片山をなぐさめた。
このように日本最初の排水ボイラーの試運転は失敗に終わったが、翌明治九年(一八七六)に、貝島はボイラーを二千九百円で購入して、直方炭坑(北九州市八幡区)に導入した。しかしやはり失敗に終わり、さらに明治十一年(一八七八)に帆足義方が香月炭坑で実験したが、これも成果は得られなかった。
このようにかずかずの失敗を重ねたが、片山逸太の実験ののちに六年目にしてようやく筑豊で機械排水の成功を見ることになったのである。
それは長崎の旧大村藩士杉山徳三郎によって、目尾坑(のちの古河目尾鉱)で行われた実験においてであった。杉山は十八歳の時、藩から長崎に派遣され、オランダ人などから兵器、兵術、雷管などの製造を学んでいたのが大きな助けとなった。彼は前三者の片山、貝島、帆足が船舶用ボイラー、俗に“あぶりがま”といわれたものを使用したのに対し、筑豊では最初のコーニッシュ式横型ボイラーを使用した。そして従来の熱量の損失を耐火レンガを使用することによって防ぎ、ようやく成功を納めたのである。
麻生賀郎親子が同じ目尾で十五段式のツルベ排水をはじめてから十年後の明治十四年(一八八一)のことであった。
このように副戸長の勤めのかたわら、初期の産業界で父と共さまざまなに労苦を重ねていた太吉も十七歳を迎えて結婚することとなった。当時は一般に早婚であった。明治六年(一八七三)二月、鞍手郡頓野村吉川半次郎の六女ヤスを妻として迎えた。同年の十七歳であった。ヤス女は気立てが優しく、また、働き者であったので太吉の家のことは、安心して任せ、戸長の公用と石炭事業に専心できた。またヤス女は、なお存命中の気性の激しい祖母と、賢明な太吉の母のマツ女にもよく仕え、厳しい父の賀郎も我が娘のように温かく迎えた。
そして翌七年(一八七四)十二月には、早くも長女マツが生まれ、二年後には次女のタケが生まれた。賀郎も二人の孫を眺めて、いつもの怖い顔をほころばせ、珍しく膝に抱えて好々爺ぶりを見せたりした。そして毎日が賑やかで、麻生家は春の日を迎えたような温かさに包まれていた。しかしこの喜びの後に哀しいことが重なった。翌八年(一八七五)の祖母ヤス女の死であった。続いて十一年(一八七八)には母マツ女が、あっという間に世を去った。いつも温かく自分を包んでくれた母の死は、若い太吉にはこたえた。人々がいぶかるほど悲しみに打ちひしがれたようになっていた。
彼が生涯に人前もはばからず涙を流したのは、三度といわれている。父賀郎の死と、三男太郎の死と、この母の死の時である。父の時はその屍にとりすがり、太郎の時は、三十余年間一日も欠かさず記しつづけた日記を、十余日間空白にしている。母の死の時は、その性格が変わったように悲嘆にくれ、仕事も手につかない有様であった。それは人の世の虚しさと深さを一瞬のぞいて、若い魂がおののいたようであった。しかし間もなくまだ若いだけにこの悲しみを乗り越えて、逞しく立ち上がっていったのである。
それは二女の父親ということ、それに近頃老いをふと感じはじめた父親からも、今こそ一家の長として、しっかりせねばとの責任感から、今までとは違って何事も率先してやるようになった。自ずと風格も備わり人の見る目も叙々に変わって、人望もいっそう身についてくるようになった。
公人としては、明治十四年(一八八一)には“特別に職務勉励”ということで、福岡県より賞金二円をうけている。また十五年(一八八二)には、同じく福岡県より勧業通信員に選出され嘉麻郡三番学区学務委員に、さらに嘉麻、穂波の両郡の衛生委員、教育会員などに選出された。
このように序々に郷党の声望を高めていったが、一方では父に従って綱分煽石坑内に入って坑夫と共に鶴バシをふるい、その間に会計、管理、販売などにも精を出し、秀れた経営の才も現し始めたのである。
そして少年時代から一緒に寺子屋に学び、兄弟のように親しい仲の瓜生長右衛門と、ことごとに計らいながら事業を進めていった。当時といえば、いわゆる明治の青年の胸に燃えていた野望と勇気が二人の若い胸中にも渦巻き、国連の進展と共に「何をすべきか・・・」心中ひそかに模索するところがあった。そして二人とも期せずして、生涯を賭けるのは石炭事業以外にはない、と考えていたのである。
だから太吉は、父賀郎の時代の波を見越して石炭採掘に着目したその眼力に心から敬服しながらそれを引き継ぎ、更に何処まで伸びていくかわからないこの新産業に本格的に乗り出す決意をしたのであった。