麻生百年史

古文書

古文書

燃える石

8 会社組織までの道のり
さきに目尾で石炭に手を染めた親子は、明治六年(一八七三)には、忠隈及び有井山に手をつけるが、思い通り採炭までにこぎつけることは出来なかった。さらに明治十年(一八七七)には、有井開ヶ谷坑にて、また二年後の同十二年(一八七九)には、有井泉ヶ谷坑を共同にて開発した。しかしそれまでの採炭は企業化、産業化とは、ほど遠いものであった。翌十三年(一八八〇)太吉は、瓜生長右衛門とともに、父賀郎につれられて、上三緒村の大庄屋を訪れたが、裏山一帯にひろがる綱分の煽石の鉱区を見るに及んで、父賀郎もこの事業の企業化の有望なことを思い、本格的な採掘に心を定めるのである。

そのころ煽石は、コークスの一種類に入るものとされ、火中でパチパチとはじくので、当時の人々から異端視されていた。しかしその一方では、煤煙が少なくまた火もちもよく、そのうえ石炭の製造や、その他のものの焙焼用として、欠かせないものであるということが判ってくると、急速に需要が伸びてきたのである。しかも煽石は普通石炭層の間にまざって存在しているが、綱分のものは単独で埋蔵されていた。賀郎は、ひとたび決心すると、行動も素早く、即決即断でことを運ぶ性格であったから、この綱分鉱を見て、すぐにも買収して、採炭にとりかかりたい気持ちで一杯であった。

しかしそのころの麻生家の経済状態は、それを許さなかった。というのは実弟の太次郎に任せてある獅子場(のち笹松)の炭坑や、鯰田、さらに忠隈の開坑の計画なども、予想以上に隘路が多く、思い通りに運ばなかったからである。それだけに一層綱分を手にして、すべてを好転させたかったのでもある。それで翌日からは、早速親戚の者や村の有力者、それに鉱区の所有者などに、持前の情熱をもって、この煽石の将来性のあることを、諄々と説いてまわり、共同経営の一員に加わるよう説得しはじめたのである。「一つ協力してくれ。これからは石炭の世の中になる。陸蒸気も石炭で走りよる。ほとんどの機械も、石炭なしでは動かん。そうじゃろうが……」「じゃが、ほんとうに、うまくいくかいの……」「わしの目に狂いはなか。わしが体をはって責任ばもつ……」「本家がそうまでいわれることじゃけん、大丈夫じゃろうが……」はじめは半信半疑で聞いていた人たちも、徐々に賀郎の熱意と押しの強さ、それにその人柄に魅かれて、協力を申し出てくるようになった。協力者は二十余名にも達した。
早速賀郎は坑夫集めにかかり、太吉たちは道具などの諸準備にかかった。そして開坑とともに、太吉も長右衛門も、一坑夫として穴にもぐり、汗と泥まみれとなって動きだした。

このころこんなエピソードがある。 賀郎は時計を持っていなかった。まだ『セコンド』は、当時贅沢品とされていた。尤も大庄屋の賀郎としてなら、充分買える身分であった。が、賀郎は石炭の目安がつくまでは、身につけることをしなかった。それで終日横穴の坑口の前に、ドッカと腰をおろし『セコンド』がわりに「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と唱えながら、指を一本一本折って、数をかぞえはじめたのである。そして念仏の数が、百をかぞえ千になると、また一からはじめるのであった。坑夫たちは、背中にテボ(カゴの一種)を背負って坑内に入り、それに煽石を入れて上り下りする。上がってくる坑夫たちに、賀郎は必ずねぎらいの言葉をかけていた。しかし念仏の数が、千を三十超えても上がってこないときは、賀郎の念仏の声は、一段と高く叫ぶようになった。そしてゆっくりと上がってくる者を、大きな鋭い目でギロリと睨みすえるのだった。

ある日その雷が、太吉の頭上におちた。「こらっ、太吉!なにをぐずぐずしとる。このノロマ者んが!。念仏のセコンドが、泣いとるぞ。気性のかった女でも、千と十ぐらいで一往復する。お前は千と六十もかかっておるじゃなかか……。いい若いもんが、女に負けてどうする。気合が入っとらん。しっかりせんかい」このように太吉に対しても、賀郎は一般の坑夫とわけへだては、決してしなかった。それだけに、この鉱区にかける意気ごみはすさまじく、またそれが坑夫たちにも、おのずと伝わり、業績は日一日と上がっていった。と同時に、これは賀郎の目の確かさを証明することにもなり、人々の賀郎に対する信頼も深まり、また煽石の需要も、徐々に広がっていった。そして賀郎は、煽石の名称を『鬼ノ出』(オンノデ)とつけた。

石灰の製造が増えるにつれて、煽石の用途も広がっていったが、他の炭坑では煽石の石炭の付属物ぐらいに考えて、あまり力をそそがなかったため、その産出は微々たるものであった。そのために、この『鬼ノ出』の良質の煽石は、益々評判となり、発注も鰻のぼりに上がっていった。販路が広がっていくと、とりわけ太吉にかかる負担は、重くなっていった。昼間は坑内で汗みどろになって働き、夜は帳簿の整理に追われるようになった。薄暗いランプの下で、ソロバンをはじき帳簿をくる太吉の姿を見て、賀郎は逆にきびしい愛のムチともいえる言葉を、浴びせかけた。「おい太吉、お前は夜と昼の見境もつかん男か…。夜は充分に眠るときぞ……」「お父っあん。朝から忙しゅうて、帳簿や計算はどうしても夜になってしまうんじゃが…」「こら太吉、よく聞け。仕事は昼するもんじゃ。それにお前は一人の身体じゃなかぞ。ヤスや子供もおる。寝ろ…。朝がある。朝早く起きてやるのじゃ」言葉はきびしく荒々しかったが、その胸中の情は、太吉にもよく解った。だからその言葉を身体でうけとめ「そうだ。眠る時間まで仕事を残すのは、まだ一人前じゃないのだ。これからはお父っあんのいうとおり、朝少し早く起きてやろう」と、自分にいいきかせたのであった。

このようにして太吉は、父の期待にこたえるように、徐々にたくましく成長していったのである。
翌明治十四年(一八八一)に賀郎は好成績のところから、出資者二十人に諮り、会社組織にすることを提案した。これに対して、誰一人反対する者はいなかった。それで種々協議の末、『嘉麻社』という名称の会社を設立した。いまでいう合資会社のようなものである。当時会社組織にするのは稀で、大抵個人の私有的な商店式のものにすぎず、この会社組織にしたことは、賀郎の先を見越した慧眼という外はない。これによって『麻生』の第一歩が誕生し、力強くふみ出されたのである。このとき太吉は、二十五歳をむかえていた。

この『嘉麻社』は、明治二十年(一八八七)五月、賀郎が亡くなるまで、七年の間経営された。その後、太吉が経営することとなったが、当時はすでにのちにのべる鯰田炭坑の採掘の仕事に追いまくられていた。
この綱分は小さな炭坑であったが、最初に手をつけた事業であり、また父との思い出につながる懐かしいものだっただけに、太吉にとっては、忘れがたい愛着がひとしおであった。
  • 前のページ
  • 目次へもどる
  • 次のページ