麻生百年史

太吉事務室・採炭切羽

燃える石

9 鯰田炭坑の経営
明治十七年(一八八四)の木枯らしの吹く季節であった。坑内から出てきた太吉に向かって賀郎が「汗を流したらちょっと話がある」といって事務所に入っていった。太吉はまた父に叱られるのではないか、と内心いぶかしげに思いながらシャツを着がえて入っていった。しかしそこには父とともに瓜生勘兵衛門とその息子の太吉とは寺子屋以来の親友でもあり、片腕ともいえる長右衛門がかしこまっていた。賀郎は三人の顔を眺めながらいつもの調子で単刀直入に話しだした。

「太吉、お前はこの煽石をどう思うとる……」一瞬何を父が問いかけているのかよく解らなかった。が、賀郎はそんな太吉に頓着なくつづけていった。「わしも六十になった。いまはこの煽石は順調にいっとるがいつまでも煽石堀じゃいずれ駄目になる。やっぱし石炭を掘らな駄目じゃ。そうだろう……」
太吉はじっと聞いていた。二人は少し微笑を口辺にただよわせながらつづきを促す目つきをした。賀郎はそれに応えるように深く頷いて本題に入っていった。

「どうじゃお前…。ひとつはいりこんで(一所懸命)やってみんか。この鯰田の山をじゃ。もうお前も一人前じゃろが……」この思いがけない父の話に太吉はしばらく声も出なかった。いずれは、と思っていたが突然の、しかも思ったより早いのに一瞬戸惑いもあった。が、すぐあとには感激と期待に胸がふくらんでいったのだ。そんな太吉を久しぶりに賀郎は少し目を細めて眺めながらつづけた。「この長右衛門と一緒にやるんじゃ。鬼に金棒じゃろう……」長右衛門も目を輝かせ、太吉に頷いてみせていた。賀郎たちが出たあと二人はどちらからともなく手を握り合いいつまでも話しつづけていた。

このとき太吉は二十八歳になり、すでに三児の父(明治十五年に長男の太右衛門が生まれている)であり、立岩村戸長、嘉麻郡学務委員、勧業通信委員などの役職を兼務していた。この多忙の中でことを処していく太吉を賀郎はじっと眺め、ようやく一人前になった、と推し計ったのであろう。この夜太吉は「自分の山がもてる」という現実と期待と不安に心がふるえ、父の処置に感謝していつまでも眠りにつけなかった。太吉にとってこれからの五十年間の事業の門出の日でもあり、竹馬の友の長右衛門とは以後三十年余年間二人が一丸となって働き、荒波を乗り越え切り抜けていくこととなる日でもあった。

このようにして二人は一日も早く着炭するために、毎日それこそ身を粉にして働きつづけた。着炭するということは炭層にぶち当たることである。それまでは腕と足腰をたよりに掘りつづけるのである。坑夫たちも二人につづいて夢中で掘りつづけた。このころの太吉はひ弱であった幼少のころからは想像もできないほど逞しくなり、またその折々のことに処して才能を発揮しだしていた。父の賀郎もそんな太吉を見抜いて鯰田坑をまかせる気持ちになったのであろう。しかし鯰田の炭層に着炭するまでには二年余の歳月を要したのである。

今日の機械力をもってすれば数ヶ月で着炭できるほどのものであったろうが、そのころの作業は全て人力に頼る手掘りでしかなかったからである。そのために石炭界には思わぬ事故がしばしば起こった。
明治十三年(一八八〇)には高島炭坑でガス爆発がおこり死者四十七名を数えている。このような事故を少しでも軽微するためには機械力の導入しかなかった。しかし、杉山徳三郎が目尾で一応成功をみた機械採炭はまだ一般化してはいなかったし、またそれには莫大な資金が必要だったからでもある。太吉も機械類が喉から手がでるほど欲しかったが、現状からはまだ無理であった。

そんなある冬の寒い日、一人の男がふらりと彼を訪ねてきた。その男は、そのころ古い型の“あぶりガマ”と排水用ポンプを一台ずつ携えて山から山を渡り歩く新商売の請負師の一人であった。「なあ、私に機械排水ばやらしてくださらんか……。そうすりゃスミ堀はいまの倍、いや三倍にもなりますバイ」そういって事務所の前に置いてある排水ポンプを指さし胸を叩くのだ。太吉は、その古い排水ポンプがどれだけ仕事をしてくれるか、些か頼りなく思って眺めかえしたが「これも実験、一つ試してやろう」と思い、請負師のいう礼金炭二万斥(約十二トン)で請負わせることにしたのである。しかし据えつけたあぶりガマは人々の期待通りには動かなかった。どんどんと石炭をたき、しまいにはカマをみんなで叩きまわしても冬の寒い、しかも午後から小雪さえ降ってきた気候もあったせいか、ゴォー、ゴォーッと音だけは立ててもカマの温度はなかなか上がらず、ついに請負師は坑夫たちに怒鳴られて嗤笑されて逃げるように山を下っていったのである。太吉はその逃げていく請負師の後姿を眺め、半ば騙されたような不快感を味わいながらも、やはり自分たちは自身の腕で掘り進むしかないのか、と考えつづけていたのであった。

このように苦労を重ねたがやはり着炭には二年の日時を要した。その日長右衛門が一にぎりの石炭をしっかと握って血相をかえて事務所にとびこんできた。「本家っ。ついに出ましたぞ。ホレ、コレ……」長右衛門の大きな掌にその塊はしっかと握られていた。太吉ははじかれたように立ちあがり「おう、出たかっ!」と、その塊をじっとみつめ、長右衛門からこわごわうけとり、いつまでも撫で握りしめていた。この着炭は“チリメン五尺層”といわれる良質な炭層であった。鯰田坑は久びさに喜びの笑い声と活気につつまれた。坑夫たちは祝い酒に酔って陽気に歌い、踊ったりしていた。しかし、この騒ぎのなかで太吉は何故か冷静に現実を眺め、ある決意をかためていた。間もなく人々の輪からそっとぬけ「長右衛門、ちょっと……」と、事務所の方へ入っていった。

長右衛門は太吉の鋭い眼ざしを少しいぶかりながらあとからついていった。事務所の堅い椅子にどっかとかけた太吉は、やや遠いところを見る目つきでいきなり「なあ、長右衛門……。このヤマはしばらくこのままにして明日から忠隈ば見にゆこうと思うとるが、どうじゃろうか」といって、長右衛門の顔を眺めかえした。長右衛門は半ば呆れ、半ば太吉の考えが判るような思いで「本家は浮気もんじゃからな……。もう他のヤマばですかい……」と、半ば冗談のように笑い返した。
このときの長右衛門は半信半疑だった。しかしひと山で企業化することは余程の大山でも当てない限り難しい。埋蔵量、設備、人員などいろいろと問題である。しかもこの鯰田でも着炭まで二年を要している。その間は殆ど無収入である。だから長右衛門はいろいろと考えた末であり、着炭と同時にそうすることを前々から太吉が考えていたことだろう、と察した。「よござっしょう。善はいそげですたい。さっそくお供しまっしょう。明日はいままでの疲れを休めに山遊びとしゃれましょうたい」そういって快く笑いながら太吉の顔に頷きかえしたのであった。太吉もまたほっとした顔つきで茶碗に酒を注ぎ、二人でゆっくりと乾盃したのである。
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