11 最初の試練
太吉たちは忠隈でみごとに着炭し、引きかえして鯰田で採炭という仕合せな第一歩をふみだし、いよいよ軌道にのるかにみえたが、前途には幾多の困難が待ちかまえていた。それは、そのころから小炭鉱が続々と開坑しはじめ、その出炭量が明治二十年(一八八七)には百七十五万トンにも達するようになっていたからである。加えてこの石炭に目をつけはじめた東京、大阪の大手の三井、三菱、住友、藤田などが大資本と最新の技術をもって筑豊に進出してきたことである。つまり需要供給のバランスが崩れはじめたのである。
明治二十二年(一八八九)には出炭量二百三十九万トンに対し、消費量は約百十六万トンそこそこという状況に立ち至った。もちろんこの間全国に新しい設備の工場などが続々と建設され、また鉄道や航路などの延長で急速に石炭の需要は伸びたが、産出量がさらにそれを上まわっていたわけである。このため炭価の値下がりが激しく、掘り出した石炭の山を眺めて青色吐息の状態で小資本の坑主たちは支えきれず倒産者もでる有様となった。
太吉もいまではすべての公職から身を退き石炭一筋に打ちこもうとしていた矢先だけに、この情勢の急変はこたえた。
鯰田、忠隈に全財産を注ぎこんで、これからその回収にかかろうとしていたときである。つい数ヶ月前は目の前のスミのヤマが全部金になったのに、売れないスミは石ころ同然である。太吉と長右衛門は雨ざらしの石炭のヤマを見上げ、嘉麻川のほとりに重い腰を下ろす日が多くなった。河原には若草がもえて二人の目に痛いのである。
「本家、どうしたもんでっしょ……」「うん、だがこれしきりのことは切り抜けねば男じゃなか」「これが事業ちゅうもんですたいな」「なあ長さん。いまが辛棒のときよ。いつかこの若草のように芽がでる日もこようたい。悪い日ばかりはつづかんたい。それまで頑張ろうたい」そう自分たちにいいきかせ、重い腰を上げて現場に入っていくのであった。
だが悪いことは重なるものである。この石炭の不況に追い打ちをかけるような出来事がおこったのである。それは太吉にとっては親というより師ともあおいでいた父賀郎の死であった。
数日間から賀郎は首のうしろに腫ものができ、一般的にいわれている“太閤そう”という悪性の腫瘍で高熱がつづき床にふせていた。さすがに気丈な賀郎も、日々に体力の衰えが目立ち、激痛に苦しんでいた。当時としては医者も手の施しようがなく、快復の見込みも薄かった。
枕辺にかけつけた太吉は、父の熱い手をしっかりと握って、「お父っあん。しっかりしてつかわさい」と励ましたが、その父の手は日に日に力が衰えていった。しかし皆の看病の効もなく明治二十年(一八八七)五月二十四日永遠の旅に出て戻らぬ人となった。
時に六十八歳であった。太吉はその父の遺体にとりすがり、「お父っあん、お父っあん、お父っあんの気性を私に移してつかあさい」と涙とともに胸の内で祈っていた。
この炭坑の不況期に杖とも柱ともたよっていた父の死は太吉にとって二重の打撃であったが、若い太吉は心の内で「これからは父の分も、いやいまの数倍も働かねば……」と決意を新たにしなければならなかったのである。
その後も炭価は上がらず不況はとどまるところを知らない苦しい状況がつづいた。太吉は鯰田と忠隈の開坑にすべてを注ぎこんだだけに、その石炭が売れないとあっては頭をかかえるだけで策の施しようもなかった。
しかし、太吉にとって有難い救いの一つは、父が残していてくれた綱分坑の煽石であった。これだけは石炭づくりの媒焼用として需要はのびていた。これによってようやく持ちこたえていた。
しかし一方では、大資本をもって進出してきた中央の財閥はこの不況を一時的なものと見てか、また近代産業に欠くことのできない唯一のエネルギー源と確信してか、群小坑主たちの苦境を尻目に先行投資のかたちで次々と坑区を買取り開坑に手を伸ばしはじめていた。しかもこれに追い打ちをかけるように明治二十一年(一八八八)に政府は選定鉱区制度というものを施行した。これは小規模に細分化された鉱区を整理するためにつくられたものである。六十万坪(約二百万平方メートル)を基準として、大資本によらねば手のつけられぬ採掘権の許可制度であった。
政府はこれによって機械化による経営の近代化と、計画的出炭を計ろうとしたわけである。これによって一層中央の資本が入りやすくなり、逆に群小炭坑はいよいよその身のふり方を考えねばならぬところに追いこまれていった。
太吉も同様の状況にあった。その折、偶然にも、明治二十三年(一八九〇)三月に、鯰田炭坑の買手があらわれたのである。買い手はやはり大手の三菱であった。太吉はすぐには決断がつきかねた。いままで幾数年も苦労してきた山であり、自分にとっては独立の最初のヤマであった。しかしこの炭界の不況の苦境からして急場をしのぐには、やはり売るしかない。そしてこの間に他の新しい鉱区を探しあて炭界の好転を待つしかないであろう、と考えていた。ましていまの太吉にとって十万余円の金はそれこそ喉から手がでるほど魅力があった。そして瓜生長右衛門たちともいろいろと相談した結果、このところは涙をのんで戦線の一時整理ということで譲渡することに心を固めたのである。
この売買契約は、金十万五千円で成立した。この金額は明治二十二年(一八八九)としてはたいへんな金額であった。当時米一升が十銭であったことからも推測できる。とりあえず金五万五千円、即座に支払う。あとの半金は三菱の門司支店で受取ることになり、長右衛門が受取りに向かった。当時はまだ振込みや銀行送金の方法はなかった。だからこの大金を背負ってくることは大仕事であり、人々の眼をそばだたせもした。長右衛門が途中立ち寄った飯屋でも、この大きな風呂敷包みが目立ち内身を見せられてびっくりしたり、拝む老婆などもいた。
当時一般庶民には百円札を見るのも稀で、このような大金の札束を目にするのはそれこそ一生に一度あればいい方であった。
このようにして太吉の汗の結晶の鯰田坑は三菱の手に渡った。また明治十四年には高島炭鉱が同じく三菱の手にうつり、二十一年(一八八八)には三池炭鉱が三井に払いさげられている。