麻生百年史

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飛躍

13 麻生の基礎確立
太吉にとって、瓜生長右衛門と野見山米吉の二人は片腕というばかりでなく、麻生を背負ってきた二本柱といっても過言ではない。
野見山米吉は太吉の妹のマスの夫で、そのころ農学校で教鞭をとっていた秀才のほまれ高い男であった。太吉は賀郎の死後、この米吉の才能と落着いた人格にひかれ、ぜひにと誘いこんだ。しかし米吉は実業界という現実の場に飛び込むことを躊躇し、強引な太吉の誘いにもなかなか頷かなかった。だが、再三の誘いとその情熱、そして太吉の経営者としての才腕を自分なりに認め遂に協力者の一人となった。
この米吉はひとたびこの世界に入ると、その鋭い頭と決断力を発揮しだした。だから太吉は安心して事務のすべてを米吉に、そして坑内のいっさいの采配を長右衛門にまかせ、自身は販売、企画、用度などに存分に走り廻ることができるようになった。

このころ太吉に三男の太郎が誕生した。明治二十年(一八八七)九月である。人々はこの赤ん坊を見て口々に「お父っぁんの生まれ変わりじゃ」と言って、その将来を楽しみにした。
太郎は、麻生太賀吉、典太兄弟の父親である。この太郎は、周囲の人々の温かい眼差しと期待を一身にあつめてすくすくと育っていったのである。

そのころ太吉は鯰田を売って急場をしのぎながら次の計画を練っていた。太吉は一つのヤマを売れば二つのヤマを買うというように、一歩後退二歩前進の構えで奔走していた。だから長右衛門が太吉の構想を推し測るように「本家、じつはこの金の使い道じゃが・・・」と言った時も、深く頷いて「そのことじゃ。二人にも相談するつもりじゃった。わしはなぁ、やっばりヤマに注ぎ込むつもりじゃ」と、きっぱりと言った。

つまり太吉としては、他の抗主のように売った金で家を建てたり、外の事業に注ぎ込んで金を散らしてしまうことは断じてすまいと考えていた。ヤマを売った金はヤマに使おうと心に決め、二人を前にしてそのことを順序だてて話したのである。二人ともこの太吉の決意を快く受け止め、長右衛門は「やっぱり、やりまっしょう。本家・・・」と、膝をたたき、また米吉も「わたしは今までのあなたたちの苦労は知りまっせん。想像だけしかでけまっせんが、お二人の気持ちだけは多少なりともわかるつもりですたい」と、一息入れてなおも続けた。「それで今まで努力して、ようやくスミが出るようになってから他人に渡してしもうた現在、また別のヤマを探して、それに注ぎ込むという気持ちは、わたしなりにわかるつもりですたい。みんなで力を合わせてやりまっしょう」と、力強く言った。
このとき太吉は、しみじみといい仲間を持ったことを心強く思い、仕合せ者だと胸のうちで感謝していた。

話がそうと決まると決断と実行の早さではもう父賀郎に引けをとらなくなっていた太吉は、早速翌日から嘉麻、穂波の二郡をまわり、目ぼしい処女鉱区を探し始めたのである。  まず試掘権、次に採掘権を買い地上権を得て承諾書を交付し、相手に考えるいとまを与えず一気に契約に持ち込むのだった。

後に『麻生』の主柱となった大炭鉱の大半は、実はこの時手に入れたものばかりであった。上三緒、綱分、笠松と、どれも有望な鉱区であった。
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