16 笠松の放棄
明治二十二年(一八八九)四月に鯰田炭坑を三菱に譲渡した太吉は、その後、笠松から忠隈へ、そして上三緒、山内、豆田など次々と開坑し本洞炭坑に至るまでは正に波乱万丈の時代であった。まず手はじめに、笠松に着手した。「一からやり直しじゃ。立派な炭坑に仕上げてみよう。さあ、掘って掘って掘りぬくぞ・・・」そう決意を皆に伝え、再出発した。
太吉はその頃まだ一般化されてなかった堅坑方式をとった。地下掘進約四五メートルに垂直に降ろしたはしごにより、上下動の新式ポンプを据えつけ、捲楊機を導入した。また坑口から舟積み場まで炭車で運搬するという新しい設備も整え、他の坑主たちを驚かせた。そしてこの笠松は、太吉の予想をはるかに上回る速さで着炭した。しかしこの着炭の速さが逆の目となって出てきた。というのは、太吉は鯰田を手放し新しいヤマに着手している間に下がる一方の炭価が、やがて持ち直すだろうと予想していた。それが外れたのだ。翌二十三年(一八九〇)になっても炭価は低迷し、好転の兆しは見えなかった。
前年には一万斤(六トン)あたり七円台に下がり、大騒ぎとなったのに年を越してからも皆の期待に反して、六円七十銭に落ち込んでいた。さすがの太吉もスミの山に囲まれて焦り悩んだ。まして先に売却した三菱の鯰田坑が資本力にものを言わせ新式機械をどしどしと設備し、拡張につぐ拡張をしている噂を耳にするたびに焦りはつのるのだった。そしてスミの山を前にして昔日、父から教わった“程度大切・油断大敵”という自身の座右の銘にしていた言葉をじっと噛みしめていた。
― どうせ、どうせあっても、どうなるものでも、ありゃせん ―
そうも自分に言い聞かせ、腰を据えてみるものだったが、やはり落着かなかった。何か一人相撲をとっているような気がしてならなかった。操短などの措置もとってみたが、これも逆に坑夫たちの意欲を削ぎ、反って結果は良くなかった。欲求不満の坑夫たちはその鬱憤のはけ口を酒と女に求め、連日いさかいが続くようになった。また太吉も珍しく気持ちが荒れていた。
ある日、坑夫の悪行に対して桜の杖で打つというような、常日頃から坑夫たちを弟か自分の息子のように思っていた太吉からは考えられない状態に落ち込んでいた。だが、この時も打擲したあとで心の痛みに悩み翌日見舞いに出掛け、その途中、野草を摘んで訪れ枕元にその花をそっと置き「すまなんだ。はよう良くなってくれよ」と頭を下げるのだった。
自立して始めての試練の場に立ち心の動揺と闘う日々が続いた。
翌二十四年(一八九一)の春は、筑豊はめずらしく長雨に見舞われた。
その頃、かねてから頼んでいた新式のポンプが到着した。太吉はそれをすぐ取りつけようとする坑夫たちを制し、逆に坑内にある機械まで取り外して引き上げさせた。この太吉の指示に「本家もとうとう一時的に休坑に踏み切る心を固めたな・・・」と、周囲の者たちは思った。だが太吉は、そのとき休坑なぞ考えてはいなかった。この長雨を怖れていたのだ。長雨からの洪水―これにどう対処するかに頭を痛めていた。
七月に入っても雨はやまず冷たい夏が訪れ、人々の気持ちは滅入っていた。暗い予感に怯えはじめた。その予感の通り豪雨が続き、あっという間に遠賀川は決壊した。このとき、鞍手郡の直方、植木では約一・五メートル、中泉附近では約二・五メートル、嘉麻郡飯塚では約三・五メートルという水量に浸され、一面河のようになった。笠松も手のつけられない状態となった。奔流は呵責なく坑口から浸入した。水びたしの坑内の排水の見込みは立ちそうになかった。
太吉はその状況を眺めながら独りで思索していたが、二日後、長右衛門に、「こりゃあ駄目ばい。撤退じゃ。放棄しようぞ・・・」と言って、さらに、「笠松放棄、忠隈へ移ろう」と、ようやく組んでいた太い腕をといてにっこりと笑った。二人は沛然と降る雨の中で頷き合い、さらりとした顔で引揚げの準備をするよう坑夫たちに伝えた。
太吉は一度過ぎたことは振り向かない主義であった。このときも太吉の機転で事前に機械設備を取り外し、坑外へ運び出していたのが、せめてもの不幸中の幸いであった。太吉の先を見る目と、事に処しての決断の速さは抜群であった。「さあ忠隈へ行くぞ。しっかりせいよ」坑夫たちはそう口々に叫びながら、降りしきる雨の中を三百人に近い家族集団の列をつくって、笠松から忠隈へ移動を始めたのである。