麻生百年史

鉱夫使役規則

活躍と苦難の時代

17 命をひろう
太吉の機転により笠松は最少限度の被害でくい止め忠隈に移った。
忠隈炭坑は鯰田炭坑を開坑した時と同様、着炭と同時に採掘せずそのままにして次の日からとりかかり、着炭するとそのままにして引き上げたヤマである。

そしていま七年の月日が経ち、この太吉の偉大な布石が見事に生きてきたのである。それは坑夫たち三百人の家族を救うことになるばかりでなく、太吉にとっては自身の計画が間違ってなかった証拠ともなり、また経営者としての手腕を認められることにもなることであった。しかしこの忠隈もやはり大雨に見舞われ、一行は休む暇もなく連日水との斗いを開始した。笠松でかろうじて助かった排水ポンプが威力を発揮した。太吉は雨の中を駆け回りながら、持ち前の鋭い判断力と指導力をもってテキパキと指示を与えていた。 坑内の水は、ポンプで汲み上げられ嘉麻川に流した。連日、全ての機械は不気味な音を雨空に向かってたて、闘いを挑んでいた。

日を追うに従ってさしもの浸水も減り始め、皆は歓声を上げ一層努力した。さらに太吉は、今まで仮のボイラーで間にあわせていたのを正式に据え付ける作業にとりかかることにした。選ばれた十数人の屈強な坑夫たちが赤土の斜面を切り拓き、地ならししながら排水溝を作り始めた。これが上手くいけば一安心と太吉は一息つく思いで眺め上げていた。その時である。斜面の土砂が雪崩をうって地響きをたてながら崩れ落ちてきた。ひとときの安らぎは瞬時にして地獄と化した。

太吉は素早く飛び退き、危うく難を逃れたが、今のいままで元気に掛け声など掛け合って一緒に働いていた十数人の坑夫たちの姿は、一瞬にして影も形もなくなってしまった。 この突然の出来事に、しばし呆然と泥土に突っ立っていた太吉だったが、次の瞬間には持ち前の行動力を発揮して、他の坑夫たちをかり集め、その先頭に立って救出に全力を尽くし始めた。
赤土と泥水の土砂に入って崩れた土砂をとり除く作業に全員で力を尽くしたが、雨と濁流の中での救出はなかなか捗らなかった。
夜になってようやく、それも変わり果てた六人の遺体を掘り当て運び出したのであった。太吉はその死顔が安らかであればあるほど、先ほどまでの坑夫たちの姿が目に焼き付いて離れなかった。そして低い声で、「わしたちのためにも、決して二度とこのような過ちは繰り返すまいぞ・・・」と、自分に言い聞かせるように言った。そしてそのいつもの強気な顔にほろほろと涙を流し、いつまでも立ち尽くしていた。

この悪夢のような惨事があって間もなく、雨は小降りとなりはじめ、翌日には晴間さえ見えるようになった。
雨が上がると太吉は真っ先に、この犠牲者たちの冥福を祈る盛大な追悼の法要を催した。それがせめてもの死者へのはなむけであり、かつて一緒に働いていた人たちへの、いま自分ができる最大の感謝の表し方であった。

この明治二十五年(一八九二)の大水害は、筑豊に近来にない大きな被害を与えた。水害により十六坑が廃坑となり、三十数坑が休坑に追い込まれた。また、家屋や道路の損害、人間の死傷は未だかつてないほどの数に上った。そしてそれまで天井知らずであった出炭量も、初めて前年より三万四千トンも落ち込んだのである。
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