
18 忠隈の売却
筑豊一帯を襲った大雨が去った後も、一息入れるという具合にはいかなかった。依然として不況が続き、さすがの太吉もだいぶ参っていた。
鯰田坑を売却して得た十万五千円の大金も、新しい鉱区の買い付け、笠松、忠隈での設備投資など、その他の支出ですでに底をついていた。
そして太吉は、自身の山林、土地なども大部分を処分していた。-----だが、支払いは重なり、苦しい日が続いた。そして悪いことは重なるものである。それは太吉が不屈の魂をもって採掘に邁進していた忠隈が、大断層に突き当たったのである。早速ベテラン坑夫たちによって断層面にそって新しい鉱脈発見の坑道がいくつも掘られた。
一メートル、五メートルと、様々な坑道が網の目のように掘進されたが、いっこうに新しい鉱脈には行き当たらなかった。ベテラン坑夫たちもツルハシの柄に顎をのせ音を上げた。「親方、もう駄目ですばい。これ以上つまりまっせんばい」それに対して太吉は、「バカ者ン、ここで止めてどうするかッ・・・・。わしにツルハシをかせッ・・・」と、言って坑夫のツルハシを自ら手にとって厚い石の壁に立ち向かった。だが、壁はビクともしない。ツルハシが石に当たり撥ね返される音が空しく響くだけである。太吉の祈るような気持ちも通じなかった。
たび重なる炭坑の放棄を経験してきた太吉であったが、さすがにこの忠隈の大断層には歯が立たず、挫折感と動揺は隠せなかった。鯰田や笠松の時には、まだ忠隈があるという一種の期待と余裕のようなものがあったが、今はもうギリギリのところに追い込まれていた。もっとも他にもいろいろと処女鉱区を買い付けていたが、これからの再出発を考えると、つい暗澹たる思いに沈むのであった。
この忠隈も放棄か・・・。この太吉の苦悩を傍らでみている長右衛門も、「本家、もうここはダメですばい。これ以上やっても深追いするばかりで、どうも動きのとれんごとなりまっしょう」そういうのに、太吉はただ頷いているだけであった。太吉の頭には鯰田、笠松などのヤマが浮かんでいた。いずれも愛着の残るヤマであった。この忠隈もまた想い出のヤマになるのか、というのに耐えかねていた。
「本家らしくもなか。早よう手ば引いて、新しいヤマで勝負しまっしょう」
長右衛門のいうことは解りすぎるほど解っていた。が、なかなか決断がつきかねた。執着があった。この忠隈が結局“クズヤマ”と思うことは、太吉にとっては自分の目の狂いを自ら認め、自信も揺らぐことになる。
―――もう石は、駄目かもしれん。そんな想いにもなるのだった。
「なぁ長さん。わしにはヤマば一生やっていく資格があるじゃろうか」そう言っていつになく考え込む太吉に長右衛門は返す言葉もなかった。
こんな想い惑う“本家”を未だかつて長右衛門は見たことがなかった。それだけに、太吉のこの忠隈にかける愛情と情熱の深さが察せられ、長右衛門もまた太吉と同様に胸が痛むのであった。
ところが、太吉の運が強いというのであろうか、またまた拾う神が現れたのである。二日後、太吉と長右衛門が額を合わせて今後のことを相談している時、弟の太七が息せきって駆け込んできた。そして二人の顔を見ると立ったままで、「兄さん、長右衛門さん、『このヤマば買いたい』という人のいました」といって、やっと椅子に腰をおとした。
二人は、この太七の言葉に一瞬夢ではないかと疑った。「ほんなことですばい。この忠隈を買いたい、いうてます」「嘘じゃなかろうな、それでいったい何処の誰じゃ。買いたい、いうお方は・・・」太吉はようやく話が本当のようだと思い、太七の顔を穴の開くほど眺め返した。「大手か?」太七はそれに深く頷き、「買手は住友さんです」と、言って太吉の手を握りにきた。太吉は、自分の運の強さをじっと噛み締めていた。
この頃、つまり明治二十六・七年(一八九三・一八九四)ごろ、中央の財閥は着々とこの筑豊に巨大な資本を投じはじめていた。
三菱は鯰田をはじめ新入坑を買収し、また上山田の採掘権を譲り受けていた。三井は三池炭坑を、古河鉱業は下山田鉱区を買収し、日本郵船までもが勝野坑を買入れていた。残る住友が、いま忠隈買収に乗り出してきたのである。太吉も住友が買うと聞いて、いよいよ来るべきものがきた、と思った。「しかし住友は、この断層のことは・・・」「住友さんには、そのことはまだ話してまっせん」太七はそう言って、ちょっと不安な顔となった。長右衛門も「本家、どうでっしょ」と言ったが、太七が続けて、「断層のことが判ってしもたら、駄目になりまっしょう。早ようした方がええですばい」二人の話をじっと聞いていた太吉は、ようやく組んでいた太い腕をゆっくりと外し、静かな口調できりだした。「よし、わしもこのヤマば売ることに決めるばい。じゃが、わしも男じゃ。断層のことも何もかも、全て打ち明けて、その上で相手に気に入ってもろうたなら売ることにしよう」これに太七は、やや不満気に、「断層のこと話したら、いかんごとなると違うやろか。なあ長右衛門さん」長右衛門に加勢を頼む目つきとなった太七に、太吉は諭すように言った。「ええか太七・・・。忠隈はおれの惚れたヤマばい。男の闘いで残念ながら力及ばんで負けたが、今でもこのヤマはよかスミがいずれ出るヤマじゃと思うとる。そのヤマを誤魔化して売るのはわしの性に合わん。ここんところは住友さんにみんな話して納得の上、バトンタッチしてもらうつもりたい」この言葉に、太七も返すことができず、長右衛門も深く頷いていた。
明治二十七年(一八九四)四月、忠隈は金十万八千円の当時としては巨額の金で住友の手に渡った。太吉は譲渡の際、断層のことを話し、自ら先頭に立って坑内をくまなく案内した。住友は全てを承知した上で買い取ったのである。その後しばらくしは住友もやはり断層に手を妬いたが、次々と巨額の資金と新しい技術を導入して、三年後には遂にこの厚い壁をぶち抜くのに成功した。
このとき太吉は、やはり大資本にはちょっとやそっとでは勝てないということをしみじみと味合わされるとともに、自身のヤマを見る目に狂いのなかったことに、ささやかな満足を覚えていた。そしてまた一方では、住友のねらいも的を得て、このヤマは住友にとっても後年屈指の名鉱区として名を轟かせるのであった。