麻生百年史

運賃通知証

活躍と苦難の時代

20 豆田、芳雄坑の開坑
忠隈を住友に移譲するより先に、太吉は芳雄製工所を創設していた。この工場では、コークスの製造と機械工場及び精米業の三部門を設けていた。あの夢以来、炭坑の掘進に全力をあげた太吉は、まず芳雄のなかの一つ、上三緒の第一坑の開坑と取り組んでいた。上三緒の近くには太吉にとって忘れることのできない笠松坑があり、またその隣に綱分煽石坑があった。この上三緒坑は明治三十二年(一八九九)には、第二坑を開坑するまでになった。また、あの水害で一時放棄に追い込まれた笠松坑(後に山内坑と称す)では、今までと違った掘進の工法を試みていた。それは従来の設計に変更を加え、斜坑の坑法をとったのである。

そして後に上三緒、綱分、山内の三坑を合同して芳雄炭坑と改称したこの芳雄坑は、『麻生』の中でも、その後数十年にわたって重要な役割を果たすことになるのである。
このように苦境の中でも一筋の光が射しはじめ、それに加えて、時代の大きな動きが太吉に幸いし、一大飛躍を遂げるきっかけとなった。
それは明治二十七年(一八九四)の、日清戦争の勃興である。―――結果は日本軍の大勝利ということで、同二十八年(一八九五)講和条約が結ばれた。そして今までの不況は一転し、戦争後の好況期を迎え、自ずと炭価も高騰して、ようやく筑豊にも春が訪れてきたのである。

一方、豆田炭坑を開坑するには、幾多の変遷があった。この炭坑は、古く明治六年(一八七三)頃から小規模の手掘りの方式をとっていたヤマであった。明治二十一年(一八八八)頃には、太吉と他の三人が共同所有者となっていた。しかし、その頃の炭界の不況から同坑は放置されたままになっていた。それから十数年後の日清、日露の戦後の好況期を迎えると、共同所有者の一人が太吉を除いてやろうと企てた。それを伝え聞いた太吉は、すぐにその共同所有者と会って、率直にその真意をただした。

「あんたの考えを聞かせてもらおう。場合によったら承知しませんぞ・・・」 相手の男は別の所有者と手を組んでいたので、強気であった。「それは麻生さん。あんたは他にヤマがあるし、それになかなか取り掛かろうとせん。わしらもこれ以上待っているわけにはいかんばい」そういう相手に、太吉はゆっくりと話しだした。「あんたも知っての通り、今までの不況じゃスミを掘ってもただボタ山をつくるだけじゃろ。掘りたいのをじっと我慢しとったんですばい。ちょっとようなったちゅうて、せっかく手を結んだのをすぐ解くなんて、男のすることじゃなかでっしょう。これから力を合わせて、やろうという時ですたい、な。そう思われんかな・・・」相手は太吉から目をそらし、反撥した。「それは解っちょりますばってん。しかし今となってしもうてはわしらの後見人がうんと言うかどうか・・・」太吉は相手と穏やかに話し合えば充分立場も解ってもらえると思っていたが、相手があくまでも有力者を楯に、話もよく聞かずに押し切ろうとする態度に、持ち前の反骨心が承知せず、少し言葉を強くした。「あんたは後ろ楯があれば、もう麻生なんていらん。自分達だけでやった方が得じゃ。この際、麻生には引き下がってもらおうというのかな・・・。それじゃ始めっからの筋目が通らんとじゃなかとな。そういう言い分だけなら、わしも退くわけにはいかんばい」相手はあくまでも横を向いたまま黙ってしまった。

間もなくこの話は人々の耳に入った。すると麻生の旦那のためならと、川筋者たちが馳せ参じてきて、険悪な空気が流れはじめた。相手の男はこの状況に驚き、慌てて後ろ楯の有力者のところに相談に行ったところ、その有力者は「それじゃお前が言っていた、『麻生はやる気がないようだ』というのとは話がちっと違うじゃないか」と、逆に相手の男を責め、半ば腹をたてて手を引いてしまった。それで相手の男は、今度は腰を低くして太吉を訪れ、自身の非を詫びて、今まで通りの共同所有者として協力することを誓った。
このような経過を経て、豆田抗は太吉の手によって拓かれていくことになったのである。この小さな事件からも太吉の評判は上がり、自ずと事業人としての風格も滲みでてきた。

このころ連日、飯塚駅から石炭を満載した貨車が笠松港に向かって盛んに往復していた。この筑豊興業鉄道は、筑豊五郡(嘉麻・穂波・鞍手・田川・遠賀)の石炭業者たちが明治二十一年(一八八八)六月に、資本金七十五万円で創設し、専ら石炭の輸送を目的とした会社であった。初代の社長は堀田正義が就任した。太吉も同二十四年(一八九一)には、常議員(重役)に就いた。

その頃の鉄道は、若松〜直方までしかなかった。が、太吉が就任してからは大いに運動して、二年後には飯塚まで路線を延ばすことに成功した。この鉄道の延長により、石炭の輸送が速く安くなり、販路も広がっていったのである。それまでの石炭の運搬は、専ら水運に頼っていた。遠賀川の水運は石炭採掘そして運搬とは切っても切り離せない関係にあった。その輸送は川ひらた(別名:五平太舟)と呼ばれ、普通は一人乗りが多く、石炭の積み下ろし作業のため、五、六艘、多い時は二十艘の組単位で運搬された。これを明治二十四年(一八九一)に例をとってみると、この年、若松で着炭された石炭は、鉄道で一、八〇〇トン、ひらたで六九七、〇〇〇トンと圧倒的に川ひらたの運搬が勝っていた。しかし、鉄道の延長と共に、川ひらたの需要は徐々に下降線をたどり、凋落の一途を辿って、遂に昭和初期にその終焉を迎えるのであった。そして逆に鉄道は、“九州の経済発展には、鉄道を敷くにしかず”と叫ばれ、次々と各方面へ路線が延長され、九州幹線網が着々と出来上がりつつあった。 
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