麻生百年史

嘉穂銀行

火難と好運

21 太吉の活動
当時の国内産業の活況については、ことに日清戦がもたらした好況は筑豊にも波及し、『日本炭鉱誌』(高野江基太郎著、明治三十一年刊)にも以下のように記されている。
『昨日、額に汗して自ら労役に従っていた者も、今日は小坑主となれば、ボロたちまち絹服と化し、チリメンの大シゴキに時計の金鎖を巻きつけ、汽車の一等車に踞座して・・・・。中略。筑豊に五円以下の貨幣なし・・・』と。まさに戦勝ブームの波に乗った大好況にうかれる現象を呈した。   

明治二十八年(一八九五)頃には、黒ダイヤオンパレードの時代に入り、出炭高も二百万トンを超えるまでに至った。太吉もこの思わぬ恩恵に浴したが、うず高くつまれた札束を前にしても、他の人たちのように手放しで喜べなかった。というのは、太吉にとっては過去の度重なる不況、炭鉱の放棄などをどうしても忘れ去ることができなかったからである。彼は一層気持ちを引き締め、今後の方策に腐心する、という風であった。

そんなある日、太吉は片腕の野見山米吉に突然ある提案をした。「どうじゃろう。いろいろ考えたんじゃが、わしも一つ銀行を始めたらと思うとるが、意向ば聞かせてくれ」野見山は考えながら答えた。「そうですな。今、銀行づくりは盛んになっとるごとありますなぁ」「わしはただの流行ば追うとるのではなか。この思わぬ儲けを筑豊の人たちに役立てねば・・・。そう思うちょる。それに浮かれとったら、また不況が襲ってきたおり、苦しむだけじゃもん。そん時の支えにもせなならん・・・」そう胸のうちを話した。野見山も深く頷き、早速、叔父にあたる小倉の豊陽銀行の経営に参画していた森永勝吉に連絡をとった。

太吉は早速、小倉へ出かけ、森永に会った。そして持ち前の単刀直入な話し方でズバリと要点をたずねた。初対面の森永は、太吉のザックバランな質問に最初面食らったが、やはり今まで人から聞いていた通り、なかなか頭のきれる男だと好印象を持ち、率直に銀行設立の初歩的なことから丁寧に説明を始めた。太吉は真剣な眼差しで聞き、しきりに要点をメモしていった。そして、いろいろ専門的な予備知識を蓄えて帰ってきた。「さあ、これからあとは銭だけじゃ」と、野見山たちに言って、既に新しい銀行の姿を脳裡に浮かべて、目を輝かせていた。そして早速、資金準備に取り掛かったものの、今までの失敗の数々を会う人達に衝かれて、出資者集めは難航した。しかしそこは太吉の持ち前の粘りと熱意で説いて廻り、翌明治二十九年(一八九六)の三月に、資本金十八万円、払込総額六万五千円で株式会社嘉穂銀行が設立された。

人々に推されて太吉が初代頭取に就任した。そしてその開業の日、太吉は全行員を集め、抱負を訓示した。「わたしがこの銀行を設立したのは、近頃好況のこの筑豊に、他地方から良からぬ高利貸が入り込んできて、不当な利潤をむさぼり、せっかく働いて得た金を巻上げて行く傾向にあるのを防ぐためである。つまり、よそ者に金の面倒をみてもらう必要はない。わたしたちの金で、この地の事業をそして生活を守らねばならない。そのために皆は力を合わせて、地元の繁栄のために尽くしてもらいたい」太吉はあくまでもこの銀行が、個人の私利私欲のためでなく、筑豊全体の発展と隆盛を希っての設立であることを強調し、そのためにも自身の事業のために、この銀行からは資金の援助を受けないという潔癖さを示した。

太吉はこのように、銀行設立をはじめ実業家としての面目と風格を着々とつけはじめ、飛躍の時を迎えるのだった。
この時期には、石炭、鉄道をはじめとして、若松築港株式会社監査役、合資会社幸袋工作所(機械製造販売及び精米業)の取締役など、多数の業種の会社役員に就き、押しも押されぬ地方の実業家に成長していった。

そして翌明治三十年(一八九七)九月には、福岡県農工銀行が設立されることになり、太吉はその委員に任命され、諸事に尽力したことから、設立後、当時の岩村高俊福岡県知事から感謝状をもらった。
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