22 太吉の政界入り
第二次山県内閣の時、福岡県四区選出の山本貴三郎が議員を辞任したことから、その補欠選挙に麻生太吉が担ぎ出される破目となった。「わしは政治家になる心はなか。今の事業だけでいっぱいじゃ。躯もあいとらん」そう言って薦める人に幾度も断ったが、相手は執拗に食い下がり、対立候補まで押さえてきた。それでさすがの太吉も観念して、一期だけということで引き受け、無競争でもって衆議院議員に出馬当選した。
明治三十二年(一八九九)十一月、太吉四十三歳の働き盛りの時である。当時は日清戦争後の急速な軍備拡張などで、国家財政の立て直し、地租の引き上げ、各種の増税などで押し切ろうとする政府と、これに正面から反対する野党、その裏での闇取引、泥仕合に加えてようやく台頭しはじめた労働運動に対する治安警察の立法化などが争点となっていた。
気乗りせぬまま政界入りをし、議事堂の赤絨毯を踏んだ太吉は、そこで右往左往している代議士たちを眺めて、自分とはほど遠い存在に眺められ、また自身のなすべきこともなさそうに思われた。やはり自分は筑豊のヤマで汗して働き、鉄道を敷いたりする方が性に合っていると思った。だが日が立つうちに、太吉はあることに気づいた。せっかくのこのチャンスを逃す手はない。上手く行くかどうかは判らないが、自分を推薦した人々のためばかりでなく、筑豊のためにもひと働きせねばと思うようになった。それは若松港拡張工事の行き悩みを政府に訴えることであった。
若松港まで筑豊鉄道は通ったものの、石炭積み下ろしには水深が浅いのが悩みの種となってぃた。しかもその拡張工事がわずか五十万円の経費不足で行き詰っていたのである。しかし、ここで太吉は少し迷った。というのは、その若松築港株式会社の監査役の任に自身があたっていたからである。我田引水ととられるおそれもないことはないと思ったのだ。だが、近々農商務省は八幡に大製鉄所をつくることを決めている。するとこれに関連して民間工場も続出するとともに、若松港の重要性は増大し、近い将来には巨船の出入も頻繁になるに違いない。それには今の港は浅く狭すぎる・・・、そう思い自分一個の利害や見栄を超えて、この問題の提案を心に決めたのであった。
そして議会で処女演説に立ち、「即ち若松港内の中の島、葛島間の浚滞工事ならびに拡張について、五十万円の財政補助を与えられるよう、議員諸君のご賛同を求めるものであります」と、訴えたのである。いろいろとヤジも飛んだが、拍手も多く、太吉は懸命に将来のためにその必要性を説いた。だが結果は、反対百三十二票、賛成九十九票の三十三票差で建議案は否決された。
しかし太吉は、それぐらいのことではくじけず、持ち前の粘りと熱意で関係者とともに猛運動を開始し、その結果、貴族院でついに可決、そして衆議院でも予算委員総会で原案復活して、明治三十三年度(一九〇〇)から5ケ年にわたり、合計五十万円の補助金の交付が決まったまである。これで政府補助金を入れて二百三十万円を投じた若松築港工事は進み、これが今日ある若松の大港湾の基礎となったのである。
この時地元の人たちは、太吉の議会出発に際して、数百の旗を押したて、穂波村天道より、当時としては筑豊では珍しかった音楽隊までが奏楽し、数百の学校生徒が飯塚駅に見送ったのであった。
このようにして太吉は明治三十四年(一九〇一)衆議院議員の任期を終え、次期選挙には再三の推薦をキッパリと断り、約束通り一期だけで辞めてしまったのである。
この頃の筑豊は、まだ黒ダイヤ景気に浮かれ大手の進出をはじめとして、地元の各坑主たちの活動も盛んであった。財閥系の住友、三菱、古河などもそれぞれ活発に動き、業績を上げていた。その中央大手の中で、出足が遅れた三井も、明治二十九年(一八九六)五月に、玄洋社の頭山満から山野炭坑を九万円で買収した。また官営の八幡製鉄所も、明治三十二年(一八九九)に、二瀬出張所を開設して、明治炭坑から高雄炭坑(二瀬村)を譲渡してもらった。
このような財閥関係の中央資本の進出に対して、地場の資本家の麻生太吉、貝島太助(大之浦)、安川敬一郎(明治)のご三家をはじめとして、山本貴三郎(豊国)、平岡浩太郎(豊国、赤池)、松本潜(高雄、赤池)許斐鷹助(本洞)、杉山徳三郎(目尾)、蔵内次郎作(峯地)なども、目覚ましい活動を続け、設備、技術も飛躍的に伸び、採掘方式も大規模になっていた。
明治三十一年(一八九八)に貝島太助は、貝島鉱業合名会社を資本金二百万円で設立して、自ら先頭に立って奮闘していた。
また筑豊鉄道の延長問題や若松港築港について、太吉の強力な相談相手でもあった安川敬一郎は、明治三十二年(一八九九)二月、今までいろいろと問題のあった納屋制度の廃止に踏み切った。これは炭坑経営の近代化の第一歩となった画期的なことであった。
ここで炭坑独特の納屋制度について、少し触れておこう。炭坑はあくまでも多くの人間の力によって支えられる産業のため、その規模が拡大するにつれ、初期の村の二、三男の過剰労働者ではまかないきれず、勢い各県の農村の労働力を必要とするようになった。必然的に貧しい農民たちに肩入れ金(前借金)を出して集めるようになり、それでも需要を充たすことができないと、浮浪者やならず者、果ては前科者などまで集め、これらを一般社会から隔離した一定の柵の中の小屋、即ち長屋式の納屋に住まわせた。そして独身者の合宿を大納屋、家族持ちの住宅を小納屋といい、それを納屋頭領が監督する方式であった。
納屋頭領の下に“人繰り”と“勘定”をおいていた。“人繰り”とは坑夫の就業を監視し、“勘定”は会計で、坑夫への前借金の貸付や賃金の支払いなどをするが、そのやり方は半ば力ずくでの支配関係にあった。だから“ケツワリ”といって、逃亡する坑夫などがいると、厳しい追跡をしてこれを捕え、残酷なリンチを平然と加えた。これには警察も手が出ない一時期もあった。また時には賃金は支払われず、そのヤマだけで通用する私製紙幣(炭券、山券ともいう)を渡し、ヤマの勘場に併設されている売場で、日用品や食糧を買うということもあり、醤油や酒も水増しされ、主食も目減りさせるという二重三重の搾取をされても文句も言えない状況におかれていた。
その頃の唄に“いやな人繰り、じゃけんな勘場、情け知らずの納屋頭”というのがあるが、坑夫たちの悲しい心情を如実に唄に託している。このような状況に対して、明治二十一年(一八八八)に三宅雪嶺主幹の雑誌『日本人』第六号に納屋制度の惨状が掲載された。それは、その頃もっとも過酷な状況にあった長崎県下の離島、高島炭鉱の囚人よりも醜い実状を目にした松岡好一の訴えであった。これにより犬養毅やジャーナリズムが一斉に新聞や雑誌にとりあげた。このため政府も黙視することが出来ず、警保局長の清浦奎吾を現地に派し、その改善を勧告した。
これによって納屋制度の廃止の気運が全国的に高まっていくこととなるが、会社が直接坑夫を管理する直接制度に、最初に踏み切ったのが安川敬一郎であった。
そして明治三十九年(一九〇六)には、全国で直轄制度三二%、納屋制度二六%、併用四二%となり、徐々に納屋制度の解体期に入り、それが決定的となるのは、大正十一年(一九二二)国会での納屋制度廃止の議決が行われてからである。
なお麻生太吉は、この間にあって、彼自身が大庄屋出身者であったことから、初めから農民と話し合いで坑夫志願を募っていた。次々と開坑し生産規模を増大しても、農坑夫を従業員の主力とし、その関係は従来からの地主、小作人というような仕組みをとっていた。