麻生百年史

火難と好運

28 本洞を三井に譲渡
本洞死守に踏み切った太吉は、闘志をみなぎらせて一世一代の勝負を挑んだのである。連日、さまざまな手段方策が協議された。何と言っても、今までに類を見ない大規模な坑内火災である。従来の姑息な手段では到底消火は無理であった。その結果、太吉の発案による“万里の長城”方式が最終的に決まった。これは坑内の火のぐるりを万里の長城のように土の厚い壁で囲んでしまうことである。しかしこれは、地上においても大仕事であるのに、まして地下での作業であるだけ、その労苦はひとしおで、気の遠くなるような難工事であった。

本洞全体で四十八万坪、そのうち燃えているのが一割の四万八千坪―――。一年間、この壁を築き続けても、そのごく一部分しかはかどらなかった。瞬く間に一年が経ち、二年が過ぎ、やがて四年目を迎えようとしていた。その間、事故や病で倒れる者も多くを数えた。また、山内、豆田、上三緒の利益は、この本洞の消火に振り向けられた。それだけに麻生の台所全体がジリジリと苦しくなっていった。しまいには石炭を掘るための経営ではなく、火を消すための経営とさえなっていた。

太吉も殆ど自宅には帰らず、長右衛門、米吉も家族と一緒に坑夫長屋に起居を共にして頑張った。後日、野見山米吉は、この困窮の有り様を次のように記している。人件費も極度まで切り詰めた。炊事係に雇っていた女中にも暇を出し、家内に皆の飯を炊かすことにした。食物なども、ただ空腹をしのぎさえすれば何でも良い、魚は豆腐に、豆腐は味噌に、味噌は梅干という具合で、耐え得る限りの辛抱はお互いしようではないか、と人にも言い、自分も固く心に誓った。そして一番苦しかったことは、晩飯は食ったが、明日の米はどうしようと、その算段に走り廻るという状態だった。坑夫の賃金は全て伝票で渡し、その伝票を持ってくれば、事務所で金券と交換してやる。坑夫はその金券を持っていって雑貨屋とか米屋などから物品を購入する。そして商店と炭坑との勘定は、月末に商店が持ってくる金券と換える。これが公に許可されていたいわゆる切符制度であった。

しかし、月末勘定に取引先から送ってくる収入の金では不足し、支払いができない。そうすると送炭伝票を持っていって金を借りる。それもなかなか満足には貸してくれない。いろいろと言い拵えをして、やっと借り、それでようやく支払うという有り様だった。いやその苦労というものは−略−(『麻生太吉伝』より)

このように、日常の生活にも事欠く状況であった。だが、そんな時でも太吉は「そんなケチな考えじゃダメだ。困難に出合うとすぐヘコたれる。逆境の時だからこそ、食べるものもうんと食べて、力を出して働かなくちゃあ・・・」もとより太吉自身も、麻生家の屋台骨が揺らいでいることは充分承知していた。むしろ他の人たちより真剣に考え悩んでいた。ただ上に立つ自分まで泣き言を言ったのでは下の動揺は計りしれない。空元気ではないが歯を食いしばって頑張っていたのだ。

このような状況の中で死闘四年、不屈の精神がついに業火にうち勝つ日が来たのである。太吉と長右衛門、五十歳の時であった。「本家」とうとう消えましたなあ。わしは途中でいくどこのヤマば捨てまっしょう、と言いかけたか・・・。その度に本家の怖い真剣な顔をみて、言葉を呑み込んじょりました。ほんなこて、よかったが・・・」
それに太吉は深く頷きながら、「わしは今度の経験で石炭の何たるか、ヤマに生きるということはどういうことか、ようやく本当にわかってきた気がする。金に換えがたいもんを掴んだと思うちょる」
二人は長い労苦の日々を顧み、しみじみと語りあったのである。太吉は日清戦争の黒ダイヤブームで設けたものは、全て火との闘いで吐き出して、逆に何万という借金を背負っていた。

「さあ、明日からこの本洞で、儲けさせてもらいまっしょ。一から出直しじゃ」それに長右衛門たちも頷き、「日露戦争も終わったし、これからまた石炭景気がやってきますばい」と、言ってボロの作業衣の端で水鼻をひと拭きした。「この四年間のマイナスを、必ずプラスにしてみせまっしょう」そう言って、太吉はようやく笑顔となった。
この窮乏のどん底の麻生家に、翌四十年(一九〇七)の初夏、はからずもまた思いもかけぬ幸運が訪れてきたのであった。
  • 前のページ
  • 目次へもどる
  • 次のページ