29 どん底に光さす
本洞の火災と四年間余も、惨憺たる労苦の中で闘い通し、ついにその業火にうち勝ったということは、九州炭業界に知れわたり、麻生太吉が執念持って守り通した本洞坑は、さぞ立派なものであろうとの噂も広まっていった。その噂を真に受けて乗り出してきたわけでもなかろうが、三井財閥が突然本洞坑を譲り受けたい、と申し入れてきたのである。もっとも三井としては、戦後の炭業界の好転を見越して、本格的に進出してきたのであるが、この頃三井は先に政府から払い下げを受けた大牟田の三井鉱の年賦金四百五十五万五千円を完済していた。
そして三井の団琢磨がこの斡旋をしたのが、貝島太助であった。
太助にすれば、少々無理押しで引き取らせた本洞が、その後の火災で労苦を重ねる太吉にすまなく思っていた時とて、この話に飛びつき、また「いずれこのつぐないはさせて貰いますぞ」と、太吉に言っていただけに、太吉に有利になるような交渉を始めたのである。
「団さん。あんたいくらで買おうと思いなさる。実は麻生さんも苦しいので、わしは百万円で引き取ろうと考えておるところですたい。どうしても欲しいのなら、わしも手を引きますばって、百二十五万円は出してつかあさい」予想外の高値である。さすがの団も渋った。団はこの時、太吉が四年も苦労したヤマであり、またこの太助が買おうとしているヤマだ、ということに引っかかった。日ならずして団は、「貝島さんがそれほど言うのなら、それで買いましょう」と、太助に一任したのである。
このようにして本洞坑は貝島太助の“男の友情”に支えられて、金百二十五万円の大金で、麻生から三井に譲渡されたのである。
明治四十年(一九〇七)七月であった。
しかし三井のこの本洞買収は、結果的には失敗であった。かつて“筑豊炭田随一”といわれた炭質の良い五尺層も、四年にわたる坑内火災で良質の部分が灰となり、巨費を投じた深部採掘炭質は粗悪とあって、さすがの三井の大資本をもってしてもどうにもならず、休坑のやむなきに至った。
これに反して、窮乏の底で喘いでいた太吉は、全くの好運の波に乗った。今までにも太吉は、かつて不況で身動きがとれなかった時、三菱に鯰田坑を売り、また断層にぶち当たって困窮の瀬戸際には住友が現れ、忠隈を譲渡している。まさに強運に恵まれていると言わざるを得ない。しかしそれも、単に運が強いというのではなく、その背景にはいつも真剣勝負の悪戦苦闘と、ガンとして意志をまげぬ不屈の精神があったのである。その代価として、当時としては巨万の富を手にすることができ、麻生家興隆の基を築くことになったのである。
その当時を顧みて、瓜生長右衛門はこう語っている。
「あの炭坑は苦労儲けでした。が、三井に譲ることのできたお蔭で巨額の富も得たし、その上得難い経験も積んだので、その後のためには大変役に立っています。まったく本家も長い間、運が良かったり悪かったりでしたが、本洞を売ったのが契機となって、日露戦争後の国運に乗ずることができた。それが今日の隆盛を築く基となっているのです。
三井から交渉のあった時、一歩踏み方を間違えていると、本家も今日の本家となることができなかったかも知れない。この運は始め悪く、あとは良しでありましたが、その始め悪しが大変な悪しなんでしたからねえ。ハッハッハ・・・。その後、三井さんも結局あれでは儲けることができなかった。やっぱり悪い山でしたな。それにしても、もし三井さんだけの犠牲を本家が払っていようものなら、それこそ大変だった。本家の粘り強いのには全く文句がありません。当時、親戚、縁者、知友などが口を揃えて放棄を勧めるのを頑として聞き入れなかったのですから・・・。
実は私等も、幾度か途中で思いとどまらそうと考えたもので“本家、この山は・・・”とまで口に出して、そのまま、あとを呑み込んだことでした。それをあそこまで頑張り通して、却って開運の基となしたのは、運がいいともいえば言えるが、やっぱり本家の度胸と根気でしたよ・・・」