麻生百年史

吉隅鉱業所・赤坂鉱業所・網分鉱業所

第二章 爛熟期
明治末から大正・昭和初期の炭業界

30 炭業界の全貌
明治末期から大正・昭和初期にかけてのわが国の経済界の急速な発展の動機は、日露戦争後の国運の興隆と第一次世界大戦によってもたらされた経済的飛躍、それに昭和初期の大陸への進出発展と金本位制度の動揺によって、世界経済のバランスがくずれかかったことに動機づけられた経済力の対外進出の三つに大別される。
もちろん、その間にはさまざまな起伏、曲折、反動等の時期もあった。石炭業界にしても、たとえば撫順炭の輸入などによる好不況の波に洗われながらも、全体の推移からすると、やはり国運に沿って、上昇、発展の道を歩んだといえる。それを出炭量からみると、次のように三年目ごとの上昇が歴然としている。
明治四四年(一九一一) 一七、六三三(千トン)
大正 三年(一九一四) 二二、二九三(千トン)
大正 六年(一九一七) 二六、三六一(千トン)
大正 九年(一九二〇) 二九、二四五(千トン)
大正一二年(一九二三) 二三、九四九(千トン)
大正一五年(一九二六) 三一、四二七(千トン)
ことに大正五年(一九一六)以降、九年(一九二〇)ごろまでは未曾有の好況が続き、これによってわが国の産業界は確固たる基礎を完成させたと見ることができる。その後、大正九年(一九二〇)に、大戦後の反動による不況が襲ってくるが、もうその時は以前のように全体が根底から脅かされるというような不安はなかった。そしてそれ以後は、国運に乗って飛躍発展の道をたどるのである。

31 麻生の大躍進
苦境のどん底で、三井という大手が現われ、思いもかけぬ好運に恵まれた太吉のその後は、今までと違い、なすこと全てが順調にはかどって行った。いわゆる太吉の事業の完成期である。どの事業も、修練期、準備期、完成期を通って成功を納めるのであるが、大半は中道にして不運にも挫折、波瀾の波をかぶって、再起不能となるケースが多い。しかし、太吉は人一倍の努力と強靭な意志、それに好運、というよりもむしろ強運に恵まれ、見事に荒波を乗り切って完成期を迎えた、稀にみる好運児の一人であるといえる。そして事業を組織化し、太吉自身はもう作業衣をまとって各鉱業所をとび歩くこともなく、飯塚の総本部に腰を据えて総指揮をとるようになっていた。

明治四十二年(一九〇九)の吉隈坑についで、同四十五年(一九一二)に上三緒第三坑の開坑、その間、同四十四年(一九一一)には、筑豊石炭鉱業組合長に就任、さらに同年六月、多額納税者互選により貴族院議員に当選した。
そのとき太吉は親戚はじめ関係者一同を集め、「はからずもここに貴族院多額納税議員に選挙され、近々帝国議会開会のため、これに出席すべく上京することとなった。従来から多用にもかかわらず、上京することとなれば、諸君に一層の尽力をまつ次第である。実は政治に参与することは不慣れでもあり、その必要もないが、貴族院の末席をけがす以上は、議員として国のために尽くすつもりである」と述べ、一同と祝盃をあげたのである。しかしこの貴族院議員は大正十四年(一九二五)まで二期務め、三期は人々のすすめを斥けて固辞した。

ところで、資金ができた太吉は、それまで掘進のはかばかしくなかった綱分坑に力を注ぎだした。綱分さえ上手く行ったら、藤棚、本洞の倍の仕事ができると、常々から長右衛門と話し合っていた。その言葉通り、綱分は年と共に採掘量を増し、明治四十五年(一九一二)には、三万七千余トンを産出、翌大正二年(一九一四)には第二坑、第三坑と開坑し、隣接の赤坂坑と合せて綱分鉱業所とした。そしてその後も新坑を次々と開いて、昭和八年(一九三三)には三十七万余トンを出炭するようになったのである。
さらにもう一つ、明治四十年(一九〇七)に買収し資金難で一時休止していた吉隈坑の採掘再開がある。この坑は炭質も炭量も、綱分と共に豊富で、大正七年(一九一八)に株式会社として発足した麻生商店の礎となるものであった。その総鉱区は六三六万平方メートルに及んだ。この他に太吉が第三期に着手したものに、牛ノ隈、久原坑がある。牛ノ隈は明治四十年(一九〇七)十月に開坑したが、鉱区が狭いため年産一万五千トン前後の出炭しかなく、大正五年(一九一六)に廃坑とした。また久原坑も炭坑としての命は短く、大正五年に廃坑となった。
ともかくもこの第三期において、麻生全鉱業の陣容が固まり、時流に乗って躍進を続けるのである。
その開坑着手の経過を、年代に従って記すと下記のようになる。
明治三九年 (一九〇六) 四月 綱分開坑
明治四〇年 (一九〇七) 一二月 豆田第三坑と牛ノ隈とを開坑
明治四二年 (一九〇九) 五月 吉隈の第一坑の下臼井開坑
明治四五年 (一九一二)   吉隈坑再着手と共に、第二坑を開坑、十月に綱分の第二坑を十一月に吉隈五尺層を開坑
大正五年 (一九一六)   吉隈に五ヵ所開坑
大正六年 (一九一七)   吉隈に愛宕坑開坑
大正八年 (一九一九) 一月 吉隈に笹尾坂坑と立石坑開坑
大正九年 (一九二〇) 七月 綱分と吉隈、十二月に吉隈開坑
大正一三年 (一九二四) 十月と十二月に綱分と吉隈
大正一四年 (一九二五) 四月 吉隈、九月に山内開坑
昭和四年 (一九二九) 三月 赤坂開坑
主な発展の経過は以上の通りであるが、この頃は一つの新坑区を開くたびに事業は大きくなり、太吉の事業家としての真面目躍如たるものがあった。
この頃「事業のためには、何でも捨てる」と、心境を語っている。それは、真の事業は営利のみではなく、あくまでも公のものであり、その意義も、その責務も、すべて社会のためにある。ということであった。この基本理念に基づいて、太吉の本領は如何なく発揮され、またこのことが麻生発展の根本理念にもなっていくのである。
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