麻生百年史

明治末から大正・昭和初期の炭業界

32 悲嘆と栄誉
このように事業の方は、順風に帆をはらませての好調な滑り出しをみせていたが、その蔭に思わぬ悲劇が潜んでいた。というのは、次男鶴十郎の急死の報せであった。

太吉は四男四女の子福者ではあったが、長男の太右衛門は幼いころから病弱で、事業の後継者には不向きと見て、次男の鶴十郎に期待をかけていた。鶴十郎は幼少より利発な児で、飯塚高等小学校を卒業すると、東京の慶応義塾の予科へ入学させ、しかもその頃厳格を持って聞えていた毛利家の時習舎に寄居させた。

そして慶応義塾を卒業すると、今後事業家として立っていくには海外の知識を身につけさせねばと考え、アメリカへ留学させたのである。しかしその鶴十郎が二年ほど経ち、暫らくアメリカの事情にも慣れ、これからという時に、不幸にも病をえて、ついに肉親の看護も受けずに異郷に倒れたのである。二十五歳の若さであった。 時に明治四十一年(一九〇八)三月二十一日で、戒名を『仙鶴院賜釋祐専学居士』という。鶴十郎にかけていた期待が大きかっただけに、さすが太っ腹の太吉も悲嘆にくれ愚痴をこぼしたり、放心したりする日々がしばらく続いた。
いつも太吉の蔭に寄り添って、黙々と内助の功を積んでいた妻女のヤスが、見るに見かねてか「あなた、いくら悲しんでも死んでしもうた子はもう帰って来やしまっせん。それよか、後継の太郎のことば、よう考えまっしょう」と、励ますのであった。

そのころ三男の太郎は、熊本の名門校といわれていた済々黌の生徒であったが、太吉とヤスは親元を離れていて、また鶴十郎の二の舞になってはと思い、熊本の寄宿舎から太郎を呼び戻した。
そして、福岡の岩田屋別荘を借りてそこに住まわせ、学校にはやらずに専ら家庭教師によって勉学させることにした。家庭教師には、福岡商業学校の教頭の高橋重太郎、同校教師の商業簿記の増沢寅次郎、それに福岡裁判所の判事でもある清水壮佐久などの、その道の専門家を当たらせた。

そして一年後には福岡の浜の町にある旧黒田藩の野村家老の浜屋敷を買い取って、これを改築した。改築が終わると、そこに太郎はもちろんのこと福岡商業、福岡工業の生徒十五人を選んで住まわせることにした。それらの生徒の食費、学費など一切を無料とし、太郎の友達であり書生をも兼ねさせ、学校を出たら麻生商店に勤めさせようという、いわゆる当時としては珍しい、給費生制度をとったのである。後年この給費生の中から優秀な人材が生まれ、またこの制度がのちの麻生塾の原型となった。そしてそれらの秀れた人たちが、後年の麻生産業の中心的役割を果たし、支えていくのであった。

このように家庭的な不幸に見舞われたが、いつまでも悲嘆にくれている太吉ではなかった。しかも太吉にとって生涯忘れることのない栄誉ある出来事が起こったのである。 それは明治四十四年(一九一一)十一月、肥筑の野で挙行された陸軍特別大演習の折、畏くも、明治天皇に拝謁を賜ったことである。
その折、福岡県十一名、佐賀県七名の実業家は、久留米大本営において、時の宮内大臣伯爵渡辺千秋を経て、陛下の御前にて、一人一人それぞれの実業上の閲歴並に御下問に奉答するという光栄に浴したのである。太吉は本邸に帰ってから、その奉答の模様を親戚はじめ重役幹部達に衿を正して伝えた。
陛下の御前において、渡辺宮内大臣を仲介としての、御下問である。
「石炭鉱業につき、永年尽力せし趣であるが、最初同業に従事せしは、いつ頃なりや」「幼少の頃より父に従って従事致しております」
「石炭販売の最初は、如何なる状態であったか」「当初はまことに微々たる出炭高にして、販路は主に鹽釜用として、中国筋の赤穂や尾道附近に送りました」「そのころ販売制度は如何」「昔は旧福岡藩より芦屋、若松に石炭会所なるものが設置され、そこから藩札をもって買い上げられ、必要に応じて藩札を正金に引き換え得るように相成り、あたかも今日の兌換制度に相似たる方法が設けられておりましたが、その後、年を経て、今日においては一ヵ年五十万トンを採掘販売し、代金・弐百万円を得るように経営致してります」
「かくのごとき時代より、今日まで永年石炭事業に従事したことは、さだめし辛苦のこともあっであろう」とのお言葉があり、さらに宮相は、「鉄道に関しても尽力せし由、如何のことであったか」「当時石炭の運搬は、川ひらたをもって芦屋、若松に輸送し、その運賃がかさみ万事不便につき、若松を起点とし、筑豊五郡内に石炭運搬を目的として筑豊興業鉄道株式会社を創立してより、運搬至便となり、後に九州鉄道と合併をなし、さらにまた省線(今のJR)となりました」なおも、宮相は、「銀行に関係せし由、如何なるや」「田舎のこととて、まことに微々たるものなるも、嘉穂銀行を創めてより約十五年を経過し、今日にて百万円余の預金に達しました」
「その他の公共事業に尽力少なからざる由にて、国家のため悦ばしきことである」と、奉答の終始を、珍しく頬を紅潮させて一同に伝えたのち、「この陛下の御心を心として、一層国家のため、公共事業に尽くし、奮闘努力あらんことを望む」との話で結んで、一同と共に祝の盃をあげたのであった。
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