麻生百年史

麻生商店

33 個人商店から会社組織へ
麻生商店を資本金五百万円で大正七年(一九一八)五月に株式組織とし、従来からの関係諸事業一切をその傘下におさめ、太吉みずから社長に就任した。それまで、明治二十年(一八八七)代の頃から、麻生商店の名称はあったが、個人組織で事務所も麻生家本邸の一部屋に、粗末な机と大福帳を備えたもので、時と場合によっては炭坑現場に移ったりで、会社らしい組織ではなかった。
しかし株式会社と組織変更してからは、経緯部門も鉱山、土地、山林、骸炭製造、石炭、その他物品販売、海上運輸、機械類製作など、およそ炭業に関係のある諸事業を網羅した。また関係会社には嘉穂電灯、嘉穂銀行、博済無尽会社などを擁して、機構の整備と内容の充実を図ると共に、事業統一の本拠とした。

さらにその後、事業の発展に伴い、大正九年(一九二〇)一月に資本金を倍額の一千万円(全額払込)とし、次いで同十二年(一九二三)一月には一千五百万円(払込一千二百二十万円)に増資して、その支店・出張所も大阪、神戸、岡山などに増設した。またこの間、昭和八年(一九三三)に創立した嘉麻鉱業株式会社(資本金百万円・払込五十万円)を吸収し、昭和十二年(一九三七)九月には、資本金を一千六百万円(払込金一千二百二十万円)としたのである。

また、そのころの麻生商店の事業規模を見ると、鉱区は、
鉱区総面積 五千百八万七千坪
採掘鉱区 二千七百十五万一千坪
(うち金属鉱区 一千七十二万八千坪)
試掘鉱区 二千三百九十三万六千坪
(うち金属鉱区 五百四十七万九千坪)
で、石炭推定埋蔵量は、二億一千二百五十万トン、その出炭高は年間約百二十五万トンに及んでいる。またその鉱業所は、(かつて太吉は、本邸の裏の小高い丘に登って、はるかに眺め渡せる嘉麻平野を望み、「人間一生の間に、いま眼で見えるだけの田畑を有したならばよかろうに・・・」と言ったというが、現在その数十倍の土地を所有する成功を納めたのである)綱分鉱業所(赤坂坑、綱分坑)、吉隈鉱業所、山内鉱業所、上三緒鉱業所、豆田鉱業所、愛宕鉱業所の七ヶ所のほか、吉隈炭鉱所属の練炭工場があり、また金山としては、朝鮮に遠東金山、安成金山がある。この他、副次的な事業として、芳雄製工所、安眠島林業所、山内農場、別府農場、別府土地および温泉経営、飯塚病院などを挙げることができる。
なお、石炭販売所としては、大阪、神戸、若松各支店のほか、東京、名古屋に出張所を設けている。その頃の従業員は、職員八一四名、労務者八,五五〇余名におよんでいる。

34 家人の心得
麻生商店創立の頃、その家人をはじめ使用人(当時事務所も本邸にあった)に対して、太吉は“家人乃心得”なるものを自ら作成し、諸事万端にわたる身の処し方を示している。その一部を参考までに記すると―――。

家人の心得(原文通り)
一、 家人は常に誠心誠意を以て務むべきは無論、同輩の間柄も親切を以て相交るべし
二、 家人は事情のため一時他家に傭はるゝも他日良家に嫁し家庭を作る下稽古と思へば何一つとして経験ならぬものはない。人に使わるゝと思へば腹の立つこともあるが思ひ替へ様にて日々の奉公は他日自身幸福の基となるものなれは其心掛をなすこと肝要なり
三、 如何なる場合に於ても父母兄弟のほかは、許可なくして空室にて他人と対話をなすべからず
四、 室内襖障子等の開閉を初め屏風杯の取扱は叮嚀にすべし
五、 自己受持手明のときは同輩の忙しき仕事を輔くべし
六、 同輩の手落となり又は不為となると思ふときは懇切に注意を与ふべし
七、 自己の過失は速に家長に申出て同輩の迷惑とならざる様心掛くべし
―――以下略

35 太郎と母ヤス女
話は前後するが、福岡の浜別邸で勉学にいそしんでいた太郎は、その後、太吉が眼を細めて眺めかえすほど逞しく成育していった。勉学だけではなく、庭の内外の掃除から荷車曳きと、どのような苦しい仕事にも自ら先に立ってやるのである。優れた人格の諸教師の薫陶によるものであった。

こんなこともあった。
ある日どういうことからか長右衛門の紹介状を持ったあまり風体の好くない男が、太吉を訪ねてきた。書生の渡辺長五郎(のちに麻生鉱業常務)が、ちょうどそのとき浜の町別邸に泊まっていた太吉に告げて長右衛門の紹介ということで応接間に通した。そのことを知った太郎は、「またおやじに金をせびりにくるゴロツキかもしれんぞ」と言って、その時在宅していた書生十数人を一室に集めた。
「たちの好くない奴だったら、場合によっては俺が先頭に立って飛び込むから、みんなも後に続いてくれ。こらしめてやろう」そう言って、棒切れなどを持って、応接間の隣の部屋に入り、様子をうかがった。

案の定その男は筑豊のゴロツキであった。はじめ低い声で話しているので、よく聞き取れなかったが、半ばから急に声高となった。
「どうじゃい。あんたもいっぱしの石炭王と言われるようになとる。ちょいとぐらいのゼニ出せんちゅうこともなかじゃろう。ええっ・・」
凄みをきかせた男の言葉が終わるか終わらぬうちに、太吉の持ち前の大声がとんだ。「馬鹿者ン。わしは筋の立たん金は一銭も出しゃせん」と、男が椅子を倒して立ち上がったのか、大きな音がした。隣室の太郎はすかさず、「よし、行けっ」と、先頭に立って、応接室になだれ込んだ。男は右手を懐に入れて、今にもドスを抜きそうな格好で立ち上がっていた。
しかし太吉は、悠然と腰掛けたまま、太い腕を組んで男を睨み返していた。その横に太郎は立ち、「おいっ。この家で暴れてみろ、ただじゃおかんぞっ」と、男を睨み据えながら、じりじりと男に近づいていった。後ろの書生達もすぐ男をぐるりと取り囲んでしまった。
太郎の気迫に押されてか、形勢不利とみてか、ぺタリと床に膝をつき、頭を下げながら、「すまん、あっしが悪うござんした。つい出来ごころで・・・」という、その頭の上から、「よしっ、悪いとわかったら、さっさと帰れ。二度とこの家に来るなっ」と、男に隙をあたえず、とどめをさした。それで男は中腰で逃げるように帰って行った。
この始終をじっと眺めていた太吉は、―――この分なら俺の跡を継がせても大丈夫、やって行ける―――と、眼を細め、一人で頷いていた。

この太郎は、間もなく麻生商店に入り、実地に仕事を修得するが、その知力そして胆力は人々を驚かせるのに充分なものがあった。そして明治四十三年(一九一〇)十二月、二十三歳になった時、妻を迎えた。花嫁は上総一の宮の旧藩主、加納久宜子爵の六女夏子であった。
このように麻生家に春が訪れてきたが、さらにこの夏子夫人が、太賀吉、艶子、典太、辰子の二男二女をあげ、太吉も五十五歳にして、初孫に相好ほころばせる家庭的に仕合せな日を迎えることになった。
またこの頃、太吉の三女ヨネが、当時まだ東京帝国大学経済科の学生、有田義之介を養子に迎えた。義之介は卒業すると、太郎と机を並べて重役修業に励むことになった。
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