36 石炭販売会社の設立
明治から大正にかけての石炭業の発展において、もっとも大きな隘路は、販売面における混戦状態であったといえる。
石炭業者の大半が、採掘には全力を尽くすがその販路については無智に等しく、利敏い商人、仲介業者などの言う通りの価格、数量で取引され、時には巧みに操縦されて、雨ざらしの石炭の山を築くということがしばしばであった。それはちょうど当時の農民が、農産物販売に対して無力に近い立場におかれていた状態とよく似ていた。
この弊害に気づいて、麻生、貝島、安川など筑豊の大炭坑主たちが、独自の販売機構を持ち始め、仲介業者と折衝取引したり、直接需要家への売込みに骨を折ったりしだした。
麻生商店という名称が生まれたのもこの頃である。この販売機構の活動が伸びて行けば、石炭の販売も合理化され、安心して採掘に専念できることになるのであったが、この機構は数年経っても起動に乗ることはできなかった。というのは、当時、三井、三菱などの大手大資本が販売に手を伸ばし、場合によっては代金の一部前渡しなどを行い始めたからである。
資金に年中苦労している炭坑業者にとって、後々不利な取引に追い込まれることが解っていても、ついこの餌に手が出て、借りつけてしまうのである。結局、巨大な商業資本に牛耳られ、炭坑業者の販売権は奪いとられていった。当時、筑豊の石炭販売権の大半は、三井の手に握られてしまう有様であった。
このような状況の時、麻生太吉は胸中では自主販売確立を考え続けていた。この時現われたのが、佐伯梅治という男である。
太吉が佐伯梅治を知ったきっかけは、彼が逓信省(現在の総務省)の役人で、航海標識設置調査のため、門司港務局に赴任してきたことである。そこで佐伯が眼にしたものは、当時の門司海岸や巌流島などにうず高くつまれ雨ざらしにされたままの石炭の山であった。佐伯はこの動かぬ滞貨の山を見て、その経済に対する知識から石炭の流通状況や経営内容に疑問を持ち始めたのである。
そして、いろいろと調査していくうちに、ここでその経営内容を改革し、石炭販売に新生面をひらけば、この不合理な状態も是正され、炭坑業者も滞貨に苦しまず適当な利潤をあげ得るのではないかと考え、自分なりの改革案などを練った挙げ句、長い官界生活を辞して、炭業界に轉身することに意を決したのである。
そこで佐伯は業界全体を見渡した上で、麻生太吉に目をつけたのであった。彼はその頃の自身の心境をこう語っている。
「いわば一種の群雄割據の状態で、いずれも相当な人物に見えたが、さて私が全然未知の世界へ身を投ずるに当たって、この人ならばという信頼の持てる人が、どうにも見当らない。折角の官職を拠棄して入る炭業界であるから、大いに学ばねばならず、また大いに私の意図も話さねばならん。
−(中略)−そして結局、この人だわい、と肝を決めさせたのは麻生太吉氏で、同氏の人物、性癖を私は知り尽くした訳ではないが、なんとなく惹きつけられてしまった。まあ麻生太吉の人徳に傾倒したわけですな」
しかし飛び込んだ炭業界は、佐伯が考えているより深刻な実情にあった。芳雄骸炭場には、コークスの山が二十余りも積まれている。上三緒の構内広場には、石炭や煽石が溢れている。しかもその販売については石炭だけは三井物産の独占購買に委せ、コークスや煽石に至っては、しかとした販路の獲得もなく、出入りの小商人の言いなりの価格で、代金の支払いも先方任せという杜撰な実状である。
「これはいかん。なんとか打開せねば、いくら採炭しても成り立っていく道理がない」と、まずコークスと煽石の販路を開き、ついで石炭に及ぼそうと考えたのである。
なお、これより先に佐伯は、今村力三郎等の旧友数名と炭山経営資金調達を約束していたことから、約三万円の資金を得、これで独立して石炭販売業を営もうと思っていた。
そこで自分の観てきたこと、考えていることなどすべてを太吉に話し、コークスと煽石の販売権の一切を自分に任せて貰えないか、と申し出た。太吉は、この佐伯の話をじっと聞いていたが、すぐには返事せず、しばらく熟考を重ねたのち、相手にことの本質を解らせるように静かに話し出した。
「あんたの志望はまことに当を得たもので、大変結構だと思います。私もこのことは、すでに久しく考えておりながら、どうにも適当な人を得なかったので、今日までそのままになっているが、決して無為に放棄していたのではない。独立してやってみられるというのは、あんたにとっては随分と冒険なことだ。だからあんたはしばらく独立を見合わせ、今得られた資金は当分私に貸して下さらんか。それであんたには、やはり麻生商店の一員として麻生の資金を使って思うように活躍してもらう。もし失敗すれば、あんたにお返しする。成功すれば、勿論あんたには報います。」
これで話が決まり、深く頷いた佐伯は、まず若松港に新設された麻生商店若松出張所の初代所長に就任したのである。