麻生百年史

麻生商店

37 販路の確立
この出張所開設当時を、佐伯はこう語っている。
「この若松に、坑木購入の際の事務員立寄所とでもいう小さな一戸を麻生商店は持っていた。それをそのまま出張所にし、出張所長の私と給仕の二人だけ、机はテーブル一つの出発でした。それでも帳簿は 備えてあり、現金も二十円ありました。時計がないので太吉氏の“これを持っていけ”という、すこぶる時代つきのポンポン時計を貰い、それを柱にかけて事務所を開いたという訳です」 この販売所開設は、間もなく仲介業者たちに「素人に何ができるのか」「実績もないくせに・・・」などの露骨な反発を招いたが、佐伯は「いまに見よ」と、決意を一層固めたのである。  しかし、張り切って炎暑の中を新潟をふりだしに、秋田、山形、岩手、青森と各県の銅山事務所を訪れたが、耳を貸す者は一人もいなかった。というのは、それはすべて春のうちに年間必要量を購入して、貯蔵してしまう習わしであったからである。
やはり素人の経験のなさ、第一戦は散々な態で佐伯は若松に帰ってきた。「商売は理屈通りにいきません」といった太吉の言葉が思いかえされ、その経過を話したところ、太吉は話半ばで、「それで佐伯さんも、ようやく商売の尋常科を出た、というところですよ」と、笑いとばされ、かえって佐伯の胸のうちは明るく、闘志がわくというふうであった。それで太吉と相談して、皆が春に行くのなら、一足先に冬の最中に行ったら、ということになり、雪深い北陸の山奥の銅山を、単身訪れる決意をしたのである。
「大変でしょうが、しっかりやって下さい」との太吉の言葉を背に、丈余の雪山を分けて訪れると、人恋しさの鉱山の人たちは、まず驚き、次にはこの珍客を歓迎し、そしてその熱心さと誠意に打たれ、快く契約が成立したのである。


このようにして佐伯の毎冬の北陸行きで、コークスと煽石の販路が確立されたのであった。
そして、この佐伯の努力をもっとも認め、大いにバックアップし、またともに相談に乗っていたのは、父太吉ゆずり豪快で心豊かな性格の太郎であった。二人は暇さえあれば、顔をつき合せて、案を練っていた。というのは、次の石炭の販売確立のことが問題だったからである。
それまでの麻生の石炭の販路は、従来からの行きがかりで、三井の言いなりになっている有様であった。三井から前渡しの格好で、債務もあり、借りた者の弱さで、ときには無理なことも呑まねばならない。
これに若い太郎と、今までそのことに関係のない佐伯の気持ちが納まらないのである。

たとえば、坑木を買う場合はその代金は三井に現金払い、石炭の代価は往々債務に充てられ、また購買額も一定の限度がなく、炭価の変動で直ちに送炭契約が破棄されるという、全く購買者本位のものであった。だからコークスと煽石の北陸販路確立のように、石炭の販路も自家によって、というのが太郎と佐伯の念願であった。
そして佐伯の若松出張所を中心として、各方面の需要先と連日折衝を試みたが、今までの三井対麻生の関係を知る一般の大手筋消費者は、三井への遠慮から麻生商店との直接取引を敬遠し、なかなか思うようには行かず苦慮していた。
さらに悪いことには、あまり健康でなかった佐伯が、雪中の北陸行きや連日の激務の過労からか、胸の病に倒れてしまい、神戸の郊外で養生につとめることになった。

佐伯が病を養っている間に、世の中は大きく変わり、炭業界も欧州大戦の好況期を迎え、急速な発展をとげていた。それだけに太郎は、なんとかして石炭販売の確立をと願うのであった。そしてたびたび佐伯の寓居を訪れ、手厚い見舞いとともに、その再起を首を長くして待ち、また佐伯も太郎の熱意に動かされ、静養五年、大正六年の春、病後の身体を押して、再びたつことになった。
今後は、直接の取引先のある大阪に、しかも佐伯商店の看板をかけたのである。この名儀を佐伯にしたのは、今までのように麻生を前面に押し出しての取引では、相手が三井などに遠慮して、上手く行かないということからであった。実質は麻生商店の分身、支店のようなものであるが、当面の打開の一方策であった。そして太吉は近い将来この新しい部門を、太郎と佐伯に一切委ねる心づもりでもあった。
この佐伯商店の策は、間もなく図に当たった。有力な販売業者たちは、この新参の佐伯商店なぞ眼中になく、いずれ長続きはしまい、とタカをくくって侮ったが、そこが佐伯たちの狙いであった。佐伯の努力にもよるが、間もなく日本染料と年一万トンの契約が成立し、続いて数十社の主要会社との取引に成功し、業界を驚かせた。

さらに佐伯は、販路の開拓ばかりでなく、石炭の改良について一提案をした。というのは、従来から麻生商店の産出炭は、あまり良質のはいえず、加えて豆田坑生産炭質の低下から、同坑の塊炭には特に入念な水洗い、つまり石炭のお化粧が必要であった。この佐伯の提案は、賛否両論に分かれた。水洗いをすれば、手数もかかるし量目も減る、果してどうしたものか、どたらが有利か、この両論に太吉はピシャリと決断を下した。
「第一線の販売に当たっている佐伯さんが言うてきなさったことだ、そうするのが当たりまえでっしょう」この明快な一言で、ことは決まった。委ねた人を心底から信ずる、太吉はあくまでも、それを貫く人であった。そして水洗いに踏み切った麻生の産出炭は、今までの世評を一変して、各市場の話題となり、販路は開け続け、阪神地方における石炭市場で、佐伯商店の、つまり麻生炭の地位が決定的に確立したのであった。
そして間もなく佐伯商店は麻生商店大阪出張所と看板をかえ、その所長に佐伯が就いて本格的な麻生商店が出発することとなった。
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