麻生百年史

太吉とその家族

38.太郎の死と太吉の慟哭
このころ麻生商店をはじめとして、関連諸事業も軌道にのり、太吉は得意の絶頂期にあったかに見えたが、突然、思わぬ不幸に見舞われたのである。大正八年(一八一九)三月、後継者として唯一の頼りにしていた太郎の急死である。
大阪の出張先から帰宅した太郎は「寒い。寝るばい」といったまま、どっと床に伏せてしまったのだ。医師の診断は、腸チブスの疑いということであった。
そのころ太郎の妻夏子の父の加納久宜子爵が、保養にきていた別府で急死するという、悲しい事態が重なり、その遺体がようやく東京に帰った日に、太郎は三十三歳の若さで帰らぬ人となったのである。

父と最愛の夫を、あっという間に失った夏子はもちろんのこと、太吉の悲嘆もまた痛ましいばかりであった。先に次男の鶴十郎をアメリカで失い、今度は杖とも頼む跡継ぎの太郎の急死にあって、さすが豪気な太吉も、天を仰いで涙するばかりであった。
それが如何に太吉の胸中を悲しみでふさいだかは、明治二十七年(一八九四)から約三十年間、一日も欠かさず筆をとっていた日記が、その日から三週間、全く空白になっていることからも、推し測ることができる。
しかも太郎は、この春からやっと入学する長男の太賀吉、長女の艶子(後に野田健三郎九大教授夫人、故人)、次男典太、次女辰子(後に堀江悦三麻生商事社長夫人)の幼な児を残している。さらに三十余年来片腕となって太吉を助けた瓜生長右衛門も隠退、野見山米吉もまた老境に入っており、太吉の身辺を支える柱も手薄となっていた。

悲嘆に暮れてはいるものの、太吉は当面の後継者となって、麻生商店を存分に切り廻してくれる人材の選択に、苦慮していた。
そしてようやく、夏子の姉八重子の夫である野田勢次郎を口説くことにしたのである。野田勢次郎は、東京帝国大学理科の地質学科を卒業後、農商務省を経て二年前から久原房之助の懇請で、久原鉱業に入っていた。また東京帝大の石炭講座の講師も兼ねていた。
しかしことは太吉の思う通りにはなかなか運ばなかった。というのは、「久原鉱業で将来を約束されているのに、何もわざわざ九州の飯塚くんだりまで行くなんて」という意見と、「そういっても太吉さんも可哀そうだ。孫の太賀吉さんはまだ八つ」加納家の意見は二つに割れ、なかなか結論に達しなかった。
しかし太吉は、持ち前のねばりと押しで、「八重子さん。このとおり太吉の一生のお願いじゃ。ご主人の勢次郎さんに頼んでもらえんじゃろか」と、手をつき頭を下げ、またその返事が芳しくないとみるとすぐ上京し、上野の精養軒に加納家の一族を招待した。
そして、その席で、「本日、みなさまにご足労を煩わしましたのは、前々からお願い致しております勢次郎さんを、ぜひ私の方へおいで頂きたい、という重ねてのお願いにほかなりません。ご存知の通り跡継ぎの太郎を、あっという間に失いまして、もうどうしても、どうか・・・」と、あとは声にならず、はらはらと老いの眼から涙を流して、突っ立ったままで、頭を下げ続けたのであった。

日ならずして、大勢は太吉への同情論に傾き、さすがの久原房之助もついに、「麻生さん。あんたには負けました。野田君はお宅にお譲りしましょう。もしも、私があんたの境遇だったら・・・と思うと、これ以上お断りもできません。野田君をよろしくたのみますぞ」と 折れ、野田勢次郎は太郎の急死から一年半もたってから、やっと麻生商店に入ることになったのである。

そして太吉は、遠い将来のことを考えてか、そのころ飯塚の小学校に通っていた太賀吉を、野田勢次郎と入れかわるように東京に移し、母方の加納子爵家から、学習院に通わせることにしたのであった。
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