麻生百年史

太吉とその家族

39.夫人ヤス子刀自
昔から大成する人の背後には、内助の功をおしまぬ賢夫人がいる、と言われているが、太吉の妻ヤス子は、まさにその典型ともいえる婦人であった。
家庭にあっては、はじめのころ夫太吉のほかに峻厳な舅の賀郎が、また当時八十五歳の祖母、それに温和ではあるが病身の姑、十五歳の弟太七と、七歳の妹マス(のち野見山米吉夫人)の大家族のなかにあって、いっさいを切り盛りし、また多くの従業員とその家族などに対しては、温情と愛撫を持って接し、さらに幾度かの事業不振に陥っての苦境時代には、太吉を励ますとともに、自らはハタを織ったりして衣服をまかなう、という、まさに貞女の鑑のような好伴侶であった。

こういう話が残っている。
太吉には、狩猟の趣味があったが、これをもっとも嫌ったのはヤス女であった。生来温和で慈悲心が厚く、神仏を崇拝しているヤス女にとって、これが夫への唯一の不満であった。
「あなたも、もう六十を越した身、どうか無益な殺生はおやめになって下さい」と、いつになく強い言葉で言うのに、「お前の言うことも解らんわけじゃないが、わしは昔から鉄砲打ちは下手くそじゃ。この下手なわしの鉄砲に当たって死ぬ鳥や獣もいるが、それは稀なことで、殺生というほどのことでもなか」
「そげん言われても、“下手な鉄砲も数射ちゃ当たる”と申しますけん・・・」「いや、わしの狩猟は本来、獲物を獲るのが目的じゃなか、日ごろ頭の疲れを山野を歩き廻って新鮮な空気を吸う事で癒し、また轟然と響く銃声で、鬱積した想いを晴らすことにあるのじゃ。それにもう一つの愉しみは、山野を歩いているうち、隠れた鉱脈にぶち当たることもあるし、また自分が植林した樹木の生育状態を見る喜びもあるのじゃ」
そう言われるとヤスは、返す言葉もなかった。だが、ある日曜日、小さな事件が起こった。
その日、狩猟好きの嘉穂郡長を誘い、多数の猟師や猟犬を従えて猟に出かけた。二人は世間話や狩猟の自慢話をしながら、山道を登っていると、二人の背後で突然ダーンと物凄い音がした。太吉が驚いて振り返ったとたん、横の郡長が倒れたのである。
「どうした。郡長っ!」太吉は慌てて郡長を横に抱いた。郡長の腋下から血が流れていた。これは二人の後ろからついて来ていた従者の肩に掛けていた猟銃の負い革が古びていたためすべり落ち、一瞬暴発し、その弾が一度地上に当たって跳ね返り、郡長の肩に当たったのである。そのため軽傷で済んだが、一行は狩猟を中止して早々に引き上げたのであった。

太吉が帰宅すると、いつになく厳しい顔のヤスが、「今日はとんでもないことが起こったそうですね」と、詰め寄ったのである。
それに太吉は「いや、大したことじゃなか。ちょっとした過ちじゃ。郡長の傷も軽いし」と笑い飛ばそうとするのに、「それは微傷ですんで幸いでした。しかし、もしこれが直接郡長さんに命中していたら、この猟にお誘いしたあなたは、なんと言ってご家族に詫びますか・・・」と、釘をさすように戒め、ついに太吉の狩猟を思いとどまらせたのであった。そして猟銃をどこかへ隠してしまい、再びこれに手を触れさせないようにしたのである。

また、ヤスはある時、太吉が上海へ行く準備のため、相当数のワイシャツとカラーの購入を店の者に命じた。太吉の首まわりが十七インチであったから、そのことをしかと伝えたが、使いの者はどう間違えたか十六インチのものを買ってきた。
それに対して、恐縮して皆の前で小さくなっているその者に、「それはうっかりして私が間違えたのかもしれませんねぇ」と、笑って、その十六インチのカラーを店の者にやってしまったのである。
このように家人や従者の過ちを咎めず、自分の言い方の徹底を欠いたことにしてしまう、というような、寛大で温かい思いやりのある態度に、人々はみな彼女を慕い、感服していたのであった。

このヤスも、大正十一年(一九二二)の春、金婚式の祝いを挙げたのが晴れがましい席に出た最初で、しかも最後となったのである。五十年来の得難い好伴侶であったヤスは、それから二年後の大正十三年(一九二四)に、ふとした病がもとで、看護の甲斐もなく、九月十四日、六十八歳を一期として長逝した。
太吉は言葉もなく、冷たくなっていくその手を、じっと握り続けていたのであった。
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