41.電気事業と太吉
その頃の電気業界
近代産業の伸展した基礎的エネルギーの第一歩は石炭産業であったが、次の主役として登場するのが電気(火力・電力)である。そしてこの石炭と電気は、その後不即不離の関係を保ちながら、現代に至っている。
わが国で最初の電気は、明治二十年(一八八七)に、東京電灯株式会社が、わずか七十五灯を屋外に点火するのを目的とした直流発電機一台の運転開始に始まる。人々はこの時、雷の火がランプについたと騒ぎ、恐る恐るその街灯の周囲に集ったという。これは今からわずか八十年ほど前のことである。
その後、明治二十三年(一八九〇)には、大阪電灯株式会社が創立され、京都、名古屋、横浜などの都市にも電気事業が起され、同二十三年の末には、発電総量一千五百キロに達した。さらに同二十四年(一八九一)には、京都に水力電気が起されたが、これがわが国初の水力発電であり、発電総量はわずか百六十キロであった。
そして同三十二年(一八九九)には、今井工学士(のちの九水常務)によって、大分県の日田から福岡県の久留米までに、一万ボルト、十五マイルの送電が成功した。これによって山間僻地の発電が可能となり、水力の利用範囲が拡大されるに至った。
しかし、数量の上では、まだ遅々たるもので、明治三十六年(一九〇三)の全国発電総量は四万四千キロで、そのうち火力が三万一千キロ、水力が一万三千キロにすぎず、今日では中程度の一工場の使用量ぐらいである。
日露戦争後は、世間一般の好況の波にのって、急速な発展を見、同四十年(一九〇七)には、総発電量は十一万キロに達した。 なお、明治後期から昭和初期にかけての水力、火力の発電総量の推移は、下記の通りである。
年次 |
水力 |
火力 |
計 |
明治四〇年
(一九〇七) |
三八、六二二 |
七六、二八八 |
一一四、九一〇 |
大正 元年
(一九一二) |
二三三、三三九 |
二二八、八六四 |
四六二、二〇三 |
大正 六年
(一九一七) |
五五一、〇九〇 |
三六四、四七三 |
九一五、五六三 |
大正一〇年
(一九二一) |
九一四、七四四 |
六一一、九七四 |
一、五二六、七一八 |
昭和 元年
(一九二六) |
一、八一三、五〇八 |
一、二三六、六四四 |
三、〇五〇、一五二 |
昭和 五
(一九三〇) |
二、七七七、六三七 |
一、六〇一、六七七 |
四、三七九、三一四 |
昭和 八年
(一九三三) |
三、八六六、四五二 |
二、九五三、三五四 |
六、八〇九、八〇六 |
このように水力は勿論のこと、火力も徐々に効果をあげ始め、火力発電設備の改良とともに、発電、需要量ともに増加の一途を辿り、石炭と共にエネルギーとして決定的な役割を果たすことになっていくのである。
加えて既にこの時期において、日本内地の石炭の埋蔵量にも限度があり、この需要の増加からして早晩(五十年ぐらい先)行き詰る、という見方が識者の間にも言われ始め、今後石炭に替わるものとして、水力発電に力を注ぐようその電源地帯の調査が全国的に行われたのである。
また、その質と量、用途、種類も多数にわたるようになり、一方、動力においては石油発動機、ディーゼルエンジン等が電気モーターに押されるようになり、ここに新しい産業の形が現出してきたのである。ことに小工場の普及、農村の電化は従来の農業に対して全く画期的な進歩をもたらすこととなった。
そして鉄道の電化が実現し始めると、すべての産業、社会文化の構造に変革がもたらされ、電力の将来はまた科学者たちに尽きせぬ夢を抱かせ始めたのである。
この時期において、政府をはじめ財界などは、日本の近代産業の興隆はまさに電気事業の進展にかかっているとして、あらゆる実験、研究、設備、開発に積極的に乗り出した。
このような時、当時わが国最大の重工業地帯であった北九州では、いち早く九州水力電気が全国電気電力界のトップをきってスタートし、また農村電化の実現にも力を注ぐようになった。
この大きな動きを麻生太吉が見逃す筈はなく、また電気業界としても太吉の力に期するところが多く、ここに太吉が水力電気事業経営にも登場することとなるのである。