41.電気事業と太吉
太吉、電気業界へ
太吉が電気業界へ進出して活躍したその過程を辿ると、三つの大きな段階を経ている。
その一つは、明治四十一年(一九〇八)に、嘉穂電灯株式会社を創立したことに始まる。次には、大正二年(一九一三)に、九州水力電気株式会社(九水)への参加(役員、社長)であり、三つ目は、昭和五年(一九三〇)から乗り出した九州電気軌道株式会社(九軌)の経営である。
この第一段階の時は、わずか百キロ一台の自家用程度の発電所を設けたに過ぎなかったが、それから二十五年を経た第三段階では、二十万キロという九州のほとんどの動力、灯火、軌道を制する電気産業の一方の旗頭となっていた。
さて、その第一段階の嘉穂電灯株式会社の創立であるが、それは雑談の中から生まれた趣があった。
その頃の炭坑での電気の使用は、明治三十一年(一八九八)に、明治鉱業が豊国炭坑で電灯を点じたことに始まり、動力として用いられるようになったのは、翌三十二年(一八九九)に、三菱鉱業の槇峰炭坑においてであった。
しかしまだ停電などがしばしばあって、その普及は遅々としていたが、明治四十年(一九〇七)頃から、動力の使用がようやく大鉱山の間でも盛んになってきた。麻生の炭坑でも、山内、上三緒などで電灯が使用され始めていた。
当時、太吉と野見山米吉は、こんな話をしている。
「米吉さん、電気は石炭で起すのじゃろう」「そうです。水力もありますが、たいていは石炭でしょう」
「そんなら石炭はこっちのもんじゃ。自分の手で起こすことにしたらどうじゃろう。そうしたら、高い電気代を払わんで済むじゃろが」
「私も前々からそのことは考えちょりました。早速、調べてみまっしょう」
そこで早速社員に、調査させたところ、自前の石炭を燃やして自家発電する方がすべての点で有利であることが明らかとなった。
「よし、米吉さん、踏み切ろうたい。どうせやるならうちのヤマだけで使うのはもったいなかけん、飯塚の町にも電灯の花を咲かせまっしょう」
この太吉の決心で、組織を独立の株式会社とし、一般の公募も加えて、資本金十万円の嘉穂電灯株式会社が誕生、明治四十三年(一九一〇)五月に、百キロの火力発電気一台を備えた発電所を設けて、営業を開始したのである。
山内、上三緒の両鉱業所に配電する一方、飯塚、二瀬、立岩区域の一般家庭へ約一五〇〇灯、供給した。翌四十四年(一九一一)には、発電機百キロ一台を増設し、穂波村の方にまで配電することになった。
このことは太吉に石炭とまた違った面白さを感じさせ、その将来性に期待をもたせるようになった。大正三年(一九一四)には、配電地域を大きく拡げ、飯塚市を中心に六ヵ村にわたって電気の花を咲かせたのである。
なお、同社はのちに昭和電灯株式会社と改称している。
そして太吉は、大正二年(一九一三)に、九水の重役として迎えられることになった。しかしそれは多忙な太吉が自分から好んで入ったのではなく、うまくはめられたという形であった。というのは、安川敬一郎の下から出て独立し、炭坑王として成功し、太吉とも親交の篤い中野徳次郎が「九水に麻生さんを迎えたら上手く行く」と、その手腕を高くかって、太吉には無断でさっさと自分の持ち株を太吉の名義に書き換え、取締役選任の手続きをしてしまったからである。太吉も怒るに怒れず、条件付きで承諾することになったわけである。大正二年(一九一三)、太吉五十七歳の夏であった。しかし太吉にとっても、九水に入ったことは事業生活の飛躍ともなり、意義深いものがあった。
九水の進出
太吉が九水の重役に就いてから間もなく、合併問題が起こった。
その頃、北九州の電気事業界は、九州電灯鉄道株式会社(九鉄、東邦)と、九州電気軌道株式会社(九軌)と、さらに太吉が入った九州水力電気株式会社(九水)との三大会社が鼎立していた。
そしてお互いが反目しながら無駄な競争をし、またその電力供給許可区域なども重複していた。さらに福岡市内を走る電車も、福博電気軌道株式会社(九鉄、東邦)の青電車と博多電気軌道株式会社(九水)の赤電車が、火花を散らして争っていた。
この無用な競争を、識者などは苦々しく思い、「同じ街に同種の二会社が対立し、無駄な労力と金を使ってこんな馬鹿なことはない。よくお互いに話しあって合併したら・・・」と、いうことになり、ここで太吉がそのまとめ役として奔走することになった。
早速、太吉は交渉に着手し、九鉄側の重役と再三再四会合を重ね、合同案を作成して、合併に関する申告書をお互いに交換するまでにこぎつけた。だが、そこで思わぬ暗礁に乗り上げてしまった。というのは、当時九鉄の配当は一割二分で、九水は一割であったが、九水は豊富な水利権を持ち、将来非常に有望であるから、合同の歩合算出と手順などから折衝を重ねたが、結局この歩合の押合いから、交渉は一ヵ年の延期となってしまったのである。またその間に九鉄は突然関西水力と合併し、東邦電力株式会社と改称して,外資導入を図ったので、太吉が努力した九鉄、九水の合併は遂に実現をみるに至らなかった。
この時太吉は、関係者や新聞記者に次のように話している。
「自分がこの合併に奔走したのは、同一都市において同種の会社が対立することの、経済上の面白からざるを信じたからにほかならぬ。しかしその合併交渉は、波瀾曲折を経たが、遂に全く断絶に帰したのは、誠に遺憾である。自分はここに斡旋を放棄する。しかし何等かの成り行きによって福博の電気界が無用の競争より救われるようになることは、今後といえども切望してやまぬ」と、剛腹の太吉にしては珍しく、多少の憤りを交えて語っている。
しかしこの九鉄との合併が不調に終って間もなく、今度は博軌が九水との吸収合併を図ってきた。これは福博の市民の熱烈な要望もあって、折衝もわずか一ヵ月余りで合併は実現し、九水は北九州と福岡へ進出してきたのである。この時の模様を、九水の相談役でもあり、その後太吉と親交を重ねる和田豊治氏はこう語っている。
「九水は従来電力の卸売を専門とする会社であったが、博軌との合併によって小売も始めることとなった。小売業は直接市民の日常生活に関連するもので、種々の重要な意味を持っている。この点は充分留意して、今後の業務に当たらなければならぬ。電灯と同時に動力も、また直接福博地方に供給するが、これによって工業地としての福博の将来を自分は予想することができる。北九州が一大工業地帯として、無限の将来を有することがいよいよ明らかになった。― (中略)― 従って、この地方に進出した九水の使命もまた甚だ重いと言わねばならぬ。工業動力が、石炭本位から電気本位に移りつつあることは内外の大勢である。特に今後の電力界は水力電気によって支配されるであろう。九水は幸いにして、二十万馬力の発電能力を包蔵しておる。この全能力を発揮する日も早晩来るであろうと確信する」
まだその頃の太吉は、電気に関しては日も浅く、大掴みの見透しはたっても詳細な部分については不明なことが多く、まだ身をもってその衝に当たるだけの確信や用意がなかっただけに、中央でも声望を集めている和田氏の企画、意見、抱負などからは、親交を重ねるたびに、教えられることが多かった。
そしてその後、和田氏などの推挙により、太吉は九水の社長になり、その経営に全力を注ぎ、さらに火力発電を主体とする九軌もその手中に納め、幾多の傍系会社を傘下に従え、自ら九州電力界に偉大な足跡を遺すことになるのである。