麻生百年史

電気業界への進出

42.昭和石炭の創立

<石炭鉱業聯合会長として>

麻生太吉が満場一致で石炭鉱業聯合会の会長に就任したのは、大正十年(一九二一)十月十一日、日本工業倶楽部での同会の創立総会においてであった。そして亡くなる寸前の昭和八年(一九三三)まで四期間の長きにわたってその要職にあたった。副会長は明治鉱業の松本健次郎であった。同会は当時のわが国の政界、経済界の一流人士によって構成され、これが後年太吉が前々から提唱していた、生産と販売との統制の母体となっていくのである。
太吉の考えは、人力では地軸まで掘れるものではない。石炭の埋蔵量に限界が見えてきた時、炭産業は日本の燃料源確保という大前提に立って、全炭坑の経営が合併したら、少なくとも五割以上の寿命延長が可能である、という根本的なことから発足したものであった。

同会が機関誌として発行している『石炭時報』の第一巻第一号に、太吉は“発刊の辞”として次のような文を載せている。
「抑も石炭は各種工業の原動力にして、併せて文化の発達に伴う生活必需品の一つなり。実に斯業の盛衰は、一国産業の消長と国民日常の生活に影響を及ぼす所大なりと謂うべし。然るに我炭田は、既に掘進深きに達し、経営難に悩むもの多し。殊に近時工業界不振のため一層苦境に在り。石炭鉱業会は、一面当業の改良を講究し、他面国家産業の発達に資せんが為組織せられ、茲に創立第六年を迎え基礎漸く定まり、更に一段の活躍を要する時期に達せり。茲に於いて本誌の刊行を企て、本会の機関誌とし以て会務を報道し、時に或いは各種重要問題に対する所見を発表し、或いは広く斯業に関する内外の情報を網羅して、斯界の大勢を示すと共に、学説の紹介、研究資料の提供及び会員相互の意見交換に便する等、本会の使命と相俟っていささか炭界の発達に貢献し、斯業の指針を以て任ぜんとす。本誌の任務や重且大なりと謂うべし。希くば上記の趣旨を賛し、本誌将来の発展を援助せられんことを。発刊に際して敢えて一言す」

しかし石炭界の実状は、世界大戦とともに一時は好況期を迎えたが、間もなく下降線をたどり、昭和六年(一九三一)八月には、遂に貯炭量が三百三十万トンにも達し、同七年(一九三二)に今までくすぶっていた撫順炭問題が起こったのである。
太吉は会長として、この問題に正面から取り組むこととなった。

<撫順炭問題の解決>

当時撫順炭は、満州・上海両事変の影響を受けて、従来からの南支への主要販路を失い、勢い内地への輸入に力を注ぎはじめたことが本問題発生の原因となった。しかも内地への売り込みは、採算を無視した価格であったため、必然的に内地の炭価も激落したことから、わが国石炭界の死活問題となったわけである。大体満州の労働賃金は安く、しかも撫順は露天掘りという地の利があった大連までの運賃、船積賃、船賃その他諸経費を加えると、内地渡しの原価はどう見積っても十一、二円になるはずであるが、満鉄はこれを五、六円で売り込んでいるのである。これは明らかにダンピングであって、石炭の損失を他の事業に負担させるという不健全な業務状態というほかない。

この荒波を直接受けて不況に喘いだのは、筑豊の中・小炭坑業者である。昭和七年(一九三二)の初夏には、早くも五十三坑で人員整理の嵐が吹き荒れ、筑豊炭坑労働者十万人の死活問題となった。そこで筑豊の中・小炭坑業者で組織されている互助会が中心となって撫順炭輸入阻止の猛運動を始めることになった。産炭地の町村長の代表と一丸となった陳情団が上京して、関係各省大臣をはじめ、政府当局者、満鉄の代表などに会見して、撫順炭の移入反対を申し入れた。また地元の福岡県では連日、数百名が県庁に出かけ知事から政府当局に斡旋して貰うよう懇請した。いっぽう上京の代表は、石炭鉱業聯合にも迫ってきた。聯合会は互助会と違った大手筋炭鉱業者の機関であるが、危機感は同じである。その聯合会の会長は、麻生太吉であった。

その頃太吉は東京にいて、形勢の成り行きをじっと眺め、いろいろと考えていた。勿論、撫順炭問題は当面早急に解決せねばならない。しかしたまたまこれは表面に出た問題であるが、このようになるもっと奥底に問題があるからではないか。つまり日本の石炭業の体質自体に大きな弱点があるからではなかろうか。その弱点とは生産、販売がとかく場当たり主義で、確固としたものがないからではないか―、そう太吉は考え続けた。この撫順炭騒動をきっかけとして、従来から太吉の持論である“抜本的な統制”の実現に老いの血をたぎらせていたのである。しかし目下のところはこの騒動の処理を急がねばならない。それで太吉は副会長の松本健次郎とともに政府、満鉄との折衝を重ねた。
互助会側の要求は、撫順炭の移入を最低百万トン削減して貰いたいということであったが、満鉄側は本年度移入量をすでに百八十万トンと協定しているので承認はできない、と突っ張って、双方の主張は平行線のままであった。結局、大手筋炭坑の送炭をも制限し、満鉄の移入減少と合算して、百万トンだけ市場送炭を減じ、それだけ中小炭坑の販路を保護しようということになった。ところが今度は、その百万トンを満鉄と内地とにどう配分するか、その比率が問題となった。
満鉄側の主張は一対九、つまり満鉄は移出を十万トン減じ、内地が送炭を九十万トン減ずるという案であった。しかしこれでは内地炭の制限高があまりにも多すぎるということで、聯合会が反対してなかなか両者の折合いがつかず、その間、太吉は連日奔走して交渉の進展を図っていた。そしてやっと昭和七年度(一九三二)の制限を、八対二とする案で協定が成立した。
なお協定文の要旨は、次の通りである。

一、 昭和七年度分撫順炭移入の既協定高百八十五万トンを二十万トン減じ、百六十五万トンとする。
二、 昭和七年度分内地送炭協定高二千四十九万五百九十一トンを八十万トン減じ、一千九百六十九万五百九十一トンとして、右八十万トンを大手筋炭坑において負担する。
三、 内地における石炭販売協定について、根本的なる立案を計り、その実現に努力する。


この第三項目を挿入したのは、太吉の深い思慮からであった。
間もなくそれが太吉の努力によって昭和石炭株式会社(石炭販売統制機関)の発足となって実現をみるのである。

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