<石炭の鬼>
およそ人の死なんとするや、必ず何等かの前兆を示す。鳥のまさに死せんとするや、その声良し―の譬えがあるように、七十七年間の全生涯の終わろうとする直前の昭和八年(一九三三)九月から、太吉は麻生商店経営の各坑を、洩れなく踏査したのである。それはまるで自身の足跡をたどり、間違いはなかったか、今後の発展は、ということを今一度確かめるかのようでもあった。
太吉は炭坑巡りのときは、詰襟服をまとい、黒木綿のハゼ付脚絆に地下足袋をはき、杖を持つのが常であった。また世間の通例からすれば、太吉のような大実業家の巡視というと、多くの部下、関係者などを従え、大名行列よろしく賑々しく廻るのであるが、太吉は特別必要な場合を除いては、従者など一人も従えず、無雑作な姿で前触れもなしに炭坑事務所に姿を現すのであった。この服装については、太吉は常々から徒らに表面だけ飾るようなことを戒めて、「現場の者は仕事着を着て、炭塵、土埃をいとわず働かねばならない」といって、自らも極めて粗末な、しかし活動しやすい服装で、必要以上なものは身につけなかった。そしてその巡視も、通りいっぺんな社長視察というようなものではなく、現場の者と一緒になって話し合い、相談に乗るというふうであった。
だから常に微に入り細を穿って、各炭坑が将来進もうという道程、今後の計画などを、大所より眺めて、いちいち適切な指示をあたえた。
また時には測量室に入って、係の者に、何処に露頭があり断層があると教えたり、自らが十数年前に踏査した地勢や、鉱区の状況などについて、整然と話して聞かせるなど、百尺の地下も全く自家の庭のように熟知して、現場の人々もその稀にみる記憶力と、明晰な頭脳のただ驚くばかりであった。そして最後には必ず、高い丘やボタ山の頂上に登って「高い所に立って、附近を観望するに限る」と全坑を一望の下に納め、また心ゆくばかり、田園の風物を愉しむというふうであった。
このような時も、全く疲労の色を見せず、事務所に入ってもすすめられる椅子にもかけず、杖を手に立ったまま番茶だけはすすって、昼食などは余程のことがないかぎり摂らなかった。そして終始所長などに、炭坑の現状と将来というような仕事の話だけを飽くことなく続けて、それが終わるとすたすたと帰っていくのが常であった。
それはまさに“石炭の鬼”の風格であった。
太吉が死の直前、まるで死を予感していたかのように、各炭坑をめぐったのは、全従業員とわが子のように愛したヤマに、無言の別れを告げるためであったようである。同時にまたこの最後の踏査は、炭坑事務員たちが机上の仕事のみに執着して、つい現場を忘れがちになることに対して、あくまでも現地現場主義が如何に緊要なことであるかを無言のうちに身を以って示そうとしたかのようでもあった。
<最後の各坑めぐり>
まず豆田鉱業所を振り出しに、吉隈、赤坂、綱分、山内の各鉱業所から、船尾の石灰山ならびにセメント工場の基礎工事の現場など、麻生関係のすべての事業所を見て廻ったのである。
豆田鉱業所は、明治三十四年(一九〇一)の開坑で、総出炭十七万八千トン、従業員千名、これに家族と関係者(これによって生活をするもの)を合わせると、約五千名にも及んでいる。目下第一坑、第八坑(第一、第二)、新八坑、出雲坑を有し、ここの石炭はすべて鉄道用として搬出されている。
昭和八年(一九三三)十月、例の如く堂々とした体を粗末な洋服に包んで、サクラのステッキをつきながら事務所を訪れた。そして測量係が持ってきた鉱区の全図を眺め、「わしが十年ほど前に調査したところ、この鉱区内の九郎丸の溜池の上に、露頭が出ておったもんじゃ」と、古い記憶を懐し気に辿りながら、その鉱区図面の不足を補ったり、また現場を廻って不備な箇所を指摘したりした。そして、二、三日経つと、直接所長に電話して、「先日の注意したところは直したか」と、問い合わせ、「お指図の通り進め、補修しています」と、答えると、「よかった。充分注意してやってくれ」と、電話を切るのだった。これが最後の巡視、最後の電話になろうとは、誰一人予想もしなかった。後日、「あの元気さで、あの旺盛な精力では、百歳までは大丈夫と思っていた。この次に来られたときは、あの日に教えを乞うた通りに仕事を進めておいて、その模様をご覧に入れて喜んで頂けたものを・・・」と、所長はじめ全員が、眼を熱くしたのであった。
吉隈鉱業所には、死の直前、二回訪れている。昭和八年(一九三三)九月十日と同年十月十三日である。その頃は軍需工業が盛んになって、石炭はいくらあっても足らぬ状態であったところから、同坑でもこのままでいくか、または何ヶ所か坑口を開いて、積極策を進めるかの問題に逢着していた。この採決をとるために、同坑を訪れた太吉は、元気よく各所を詳細に視察したのち、採掘方法は現在のままでよい、しかし五、六ヶ所の開坑も充分可能だとの判断を下した。そしてその帰途には、もう芳雄製工所に立ち寄り、捲揚機を注文している。
第二回目の十月十三日には、孫の太賀吉を伴った。この日の視察の目的は、新しい坑口を開くについて、本社側と鉱業所側との意見が相違していて、結論が出ないのを聞いて、それに決を与えるために訪れたのである。太吉は例によって、両者の意見を充分に聞いたのち、坑内に入って情況を隈なく巡視し、さらに近くの小山に登って、しばらく望見していた。ややあって、右手に持っていたステッキをゆっくりと上げ、「新坑口は、この辺りから開坑したらよかろう」と、指した。そして早速木片に“坑口”と書いて、それを打ち立てたのち、側近の者たちに、「この炭坑の地形を視察し、坑の内外を検分し、さらに附近を調査してみると、本社側と炭坑の意見には、それぞれよい部分と欠点のあることが判った。いま指定した場所に坑口を開くと、約二百九十一メートル(百六十間)ぐらいで、着炭するものと思う。またここは、大変いい土地だから、大切にするように・・・」と、喜んで引き上げていったのである。また同坑内にあった炭坑の祭神を祈る神社を『弥栄神社』と命名し、その神額の文字を自ら揮毫した。
赤坂鉱業所を訪れたのは、炭塵が陽に輝く炎暑の八月三十一日であった。同鉱業所は、従業員一千三百余名の大炭坑で、出炭量は十六万七千八百万トンに及んでいる。
さらに十月九日に、二回目の視察の折、過般同坑の事務所が焼失したことについては、「起こったことは致し方がないから、今後十分に注意するように。早く新しい事務所を建てなさい」と、小言一つ言わず、逆に鉱区図面を前にして採炭計画の増大を進め、「ここは深部を掘ったらよかろう」と、指示を与えるのだったが、これが同坑に対する、遺言となってしまったのである。
綱分鉱業所にも、十月十日と同十四日の二回訪れている。同鉱業所は従業員約九百名、出炭量十八万トンで、ここではいろいろと意見を述べたのち、専ら開坑当時の様子を語り、辺りの池を埋めたことなどの話に花を咲かせた。そして傾斜のひどいボタ山に登って、辺りを望見したのち、しばらく追憶にふけったりして、機嫌よく帰路についた。
山内鉱業所は、太吉にとって最も思い出の深い炭坑である。同鉱の開坑は明治二十七(年一八九四)で、当時は獅子場坑と呼んでいた。昭和八年(一九三三)現在、従業員約千名、出炭量十六万八千七百トンに達していた。ここでもいろいろと注意を与えたのち、昔話に時を過ごし、七十七歳ともいえぬ元気な足取りで、巡察を終えて帰っていったのである。
このように太吉は、まるで死を予知した者のように、自己経営の各炭坑を隈なく視察し、無言の内に全従業員とヤマに別れの挨拶をして廻ったのであった。この最後の炭坑巡察の折の太吉の言葉と姿は、九千余名の従業員の胸底深く、刻みつけられたものであった。
当時の麻生炭坑の総生産高は、百万トンを越え、従業員は五百余名、
稼動者八千余名を数え、その家族、これによって生活を支えている者を加えると、実に三万数千名の多きに達していた。