麻生の全炭坑の巡察を終えた太吉は、東京で諸事業の打合せのため上京し、すべてが順調にいっていることに心を安めて、十月二十六日帰郷の途についた。これが太吉の東京の見納めとなった。
二十八日に、久々に飯塚の本邸に帰った太吉は、現場で実地に汗を流して働いている孫の太賀吉の成長ぶりに眼を細め、近々開く予定の喜寿の祝いを兼ねた“観菊の会”のことを愉しげに想っていた。久々に親しい人たちと会えるということは、この上もなく愉しいことだった。
招く人々の顔をいろいろ思い浮かべながら、秋の陽を浴びて山内農場の辺りへ散歩に出かけた。その途次、尻ばしょりをして菊いじりをしている瓜生長右衛門に会った。
― 日々是好日 ―
二人の老翁の胸には、この言葉が深くしみ込んで、どちらともなく微笑み合った。
「おう、長右衛門、相変わらず元気じゃのう」「こりゃあ、本家。帰っとられますなあ」「東京はえろう寒い。こっちはまだ温くいわ。遊びに来い」
二人は頷き合って別れた。お互いにこの十数分の出会いを胸の中で喜んでいた。その喜びには七十年の重さが加わり、老いの血を騒がすものがあった。
帰宅すると、すぐ義之介を呼んで、「九水の桜井君が東京から帰福する。福岡で打ち合わせて、場合によっては上京するかもしれんが、十一日までには必ず帰ってくる。だから観菊のことは、万事手違いのないよう頼む」と、言いおいて、福岡の別邸に発った。
この十一日の観菊の宴は、はじめは喜寿の祝宴ということであったが、それでは来会者にいらぬ心配をかける、観菊会にすれば手ぶらでも来てくれるだろう、との太吉の配慮からであった。
十一月五日、帰福した桜井から共同火力発電の問題、九州電力界の件などを聞いた太吉は、急いで上京する必要もなくなった。それで翌六日、九水本社で社務に目を通したのち、病で伏せている黒木監査役の邸を訪れたのである。そしてその枕元で、病状などを詳しく聞いた上で、すぐその場から九大病院に電話で交渉し、病室の契約までして、
「どうか体を大切にしてつかあさい。将来九水はあんたの力によるところが多くなるに違いありませんから・・・」と、固く手を握って別れたのである。
しかしその病人を激励した本人の太吉が、それから二十四時間も経たないうちに、病床につき、しかも遂に帰らざる客となろうとは、誰が予知できたであろう。その日の午后、太吉は常と変わらぬ顔で、飯塚の本邸に帰ってきた。これが福岡の別邸との別れともなったのである。
そして翌七日、いつものように早く目を覚まし、床の上に坐ったそのとき、急に激しい眩暈に襲われ、全身に気だるさを覚えた。家人のすすめで検温してみると、三十七度を越えていた。
間もなく飯塚病院の西田博士が迎えられたが、診断の結果は、感冒をこじらせたのであろう、と言うことで、一同も愁眉をひらいた。だが夕刻になっても熱は下がらず、少し上腹部に膨満感があり、食欲もなかった。西田博士は慎重に再診した末、家人には内緒にして、持病の胆石の手当を施した。
太吉は若い頃、一度盲腸炎で苦しんだことがあったが、それ以来、大病らしいものに悩んだことはなかった。しかし大正七、八年のころから胆石病にかかり、軽重の差はあったが時折再発して、これがいわゆる持病となった。そのもっともひどかったのは、昭和五年(一九三〇)十月、九軌の致命的な事件の渦中で、三十八度の発熱を押して活躍し、九軌を甦生し、九水を救った折であったが、それ以来のことであるので、太吉もしばらく安静にしていたら治るぐらいに軽く考えていた。
しかし翌日になっても熱は下がらず、病状は一進一退であった。
愉しみにしていた観菊会の当日は、空がぬけるほどの秋日和であった。大庭園の花壇や鉢植えには、この日のために菊花が思うさま開き、清香を放って、その背景は、錦繍の杜である。その紅葉の下には屋台の模擬店なども出て、また静かな琴のしらべが、何処からともなく流れ、わが世の秋をこの庭に集めていた。招待の地方官民有志をはじめ関係会社の人たち、それに麻生関係の職員、知人、親戚など約八百余名の人たちは、この広い邸内での古式ゆかしい“曲水の宴”に酔いながら、麻生家の盛運を悦び合い、太吉翁の長寿を祝っていた。
だが、その主人公の太吉の病を知ると、一同いずれも静粛になり、ひっそりとこの饗応にあずかるというふうになった。この日太吉は、「折角、人々を招いておきながら、主人が顔を出さないのは不都合だ。ぜひご挨拶申し上げたい」と、幾度も床の上に起き上がったが、依然として熱は下がらず。主治医はその言葉を聞かぬ顔で安静を強く主張した。それで、ほんの主だった人たちだけが病床近くに上って、お祝いの言葉に代えて見舞いの言葉を述べたのであった。
このようにして観菊の宴は、永別の宴となって寂しく終わりを告げた。後には柏の杜の大樹の間を、再びねぐらを求めて飛び交う夜鳥の声が、ひときわ高くこだましていた。翌十二日、義之介が上京するため挨拶をかねて病室を見舞った時も、気軽に用件を託したりしていたが、容態はその午後から悪化し始めた。悪寒が加わり、体温も激しく高低の差を示し、食欲もほとんどなくなった。しかし、主治医がそのことに触れると、「いや、足が少し冷たいだけですたい」と、苦痛さを顔に出さず、「こうも食欲がないのは、寝てばかりいて散歩をしないせいじゃろう。少し室内でも歩こうかな・・・」と、今にも起き上がって歩き出しそうな気丈な様子であった。が、熱はやはり三十八度六分にも上っていた。
十四日ごろになると、西田博士は見舞客の多いのが、病人の安静を妨げるという理由で面会謝絶を主張した。しかし太吉は、「病気には苦痛はつきものじゃ。苦痛が生と闘こうとるのじゃ。それに見舞の人たちと会うのも気晴らしになりますたい」と、平然と応待していた。
だが、そのころから全く食欲はなく、流動食を楽呑みですするようになり、やつれが目立ちはじめた。それで遂に西田博士は“絶対面会謝絶”の張り紙をドアに貼ることを家人に言い渡した。
十八日、四男の太七郎の岳父にあたる藤沢博士が小倉より来飯、それに九大の金子博士が加わって、精密な検査が行われた。その結果三博士は、胆石で炎症がすでに肝臓の深部にまで及んで憂慮すべき病状だ、と診断を下した。
しかし二十日に東京から義之介が帰ってきたということを耳にすると、どうしても会いたい、ときかないので、ほんの少しということで、義之介を病室に通した。するとまるで自身が病人であることを忘れたように、東京における用件に耳を傾け、いちいちそれに明確な判断と指示を与えるのであった。それは仕事をしている一瞬だけが、生甲斐であり、愉しい、というふうであった。その間は熱も少し下がり、苦痛からも遠ざかっているようであった。