麻生百年史

太吉の終焉

46.臨終

その後わずかの間、小康を得たが、病状は日一日と悪化し、二十二日には流動食さえ喉を通らず、「もうあまり、すすめてくれるな」と、顔をそむけるに至った。病前七十余キロあった巨体も、すでに痛々しいほどやつれ、布団の重みをやっと支えているというふうであった。
しかし気力も頭も冷静で、「あまり騒いでくれるな。わしにどんなことが起ころうとも、天意に逆ろう真似はしてくれるな。人間は最後が肝腎だ。もし病のためにわしが見苦しい言動をしたら、どうか注意してくれ。だが、わしは死の間際まで、生き抜こうとする意力は衰えんつもりじゃが・・・」と、腹部の激痛も顔には現さなかった。
そして側に付き添っている義之介に、「野田さんに激励の電報を打ってくれ、電文は“功を得て帰来を待つ”じゃ」と、頼んだ。
そのころ丁度、野田勢次郎は、遠東金山買収のため、朝鮮の江原道に出張中であった。

 

太吉は、針のむしろのような床の上で病と闘いながらも、頭の中は事業のことで一杯だったのである。天性の事業人といえよう。
その野田は、太賀吉から「タキチ、キトク」の電報を受けて驚き、急遽飛行機で朝鮮海峡を渡って帰ってきた。そして病床を見舞った野田は、いままで想ってもみなかった、憔悴した太吉の顔をみて、愕然とした。だが太吉は、眼をしばたたく野田に自身の病のことよりも、遠東金山の仕事の経過を話すことを促した。そしてその話にいちいち頷き、かつての日訪れた裏金剛山附近の豪壮な風景を思い出すかのように、眼を瞑ったまま太い眉毛を時折ピクリピクリと動かしながら聞いていた。そして野田が語り終わると、「これがわしの最後の仕事になった。わしは実に仕合せものだ」と、しゃがれた声で言って、ちょっと薄目を開け、野田を懐かしそうに眺めたのち、すぐとじた。

 

そのころには大阪から三宅博士が、また九大の小野寺博士が台湾の帰途立ち寄り、西田・藤沢両主治医から病状を聞き、診察したが、いずれも顔を曇らせ首をふるばかりであった。
そして月が変わり、十二月に入ると下腹部の疼痛は一層激しくなり、もう流動食も全くうけつけなくなった。三宅博士が遂に、「麻生さん、なんでも好きなものを食べて、元気を出して下さい」と、言うようになると、ただ頷くだけで、若い頃から鍛えぬいた体も、巨木が倒れるように枯れていくばかりとなった。
そして最後の時を迎えることになった。しかし十二月七日は、不思議に晴れ晴れとした明るさが顔に見え、側近者をはじめ唯一の後継者の太賀吉を顧みながら、「孫も、もう立派になりました。事業の方も一段落つきましたので、安心です。今が良い死に時でしょう」と、深く頷くに言ったのち、主治医たちの方を見て、「先生方、ほんとうに長々と御世話になりました。有難う」と、微笑さえ浮かべていた。感謝の言葉と今生の別れをつげた太吉は、安心したように静かに眼を閉じた。
“人事を尽くして天命を待つ”という、大往生の間際である。

 

その夜から容態は急変し、近親の者をはじめ、主だった人たちが、枕辺につききりとなった。別室には九水の木村、九軌の村上、その他親友、知己が続々とつめかけていた。広い邸内は静まりかえり、柏の杜の樹間から幽鳥の声がこだまするばかりであった。もう今では脈拍も微弱で、呼吸も困難となり、強心剤の注射も効果を現さなかった。やがて主治医の手が太吉の手首から離れた。そして一同に向かって深々と頭を下げた、と、嗚咽の声が低く、そして悠々と室内に高まっていった。
時、昭和八年(一九三三)十二月八日午前四時十分。
眠るが如く大往生を遂げ、ここに太吉の七十七年間の波乱万丈の生涯の幕は静かに閉じられたのである。


47.葬儀

夜来の雨が上がった十二月十三日、葬儀は飯塚市の本低において麻生商店の社葬をもって仏式により執り行われた。太吉はかねてより西本願寺派の勘定で、また永年篤信者であったので、京都の本山から、特に連枝の六雄瑞慶師が来邸した。それに菩提寺の川島正恩寺住職の井上叩瑞師が導師を勤めて、午前九時から棺前読経が行われた。
読経後は、葬儀委員長の弔文をはじめ、関係会社および朝野の名士の弔詞、それに久邇宮、閑院宮、東伏見宮の三宮家についで、各省大臣、その他官界、財界、各種団体からの二千通に達する弔詞弔電が披露された。
そして、『巍徳院釈幸寛忠信太山居士』の大霊位の前には、久邇宮、東伏見宮両家からの御紋章入りの御供物、御樒をはじめとして、各所より花輪、瓶花、弔旗などが、邸内はもとより広い庭園まで、ところ狭しと並べられ、弔問客は引きもきらず、その数二万余といわれ、地方には稀な盛大な告別式であった。
また特旨をもって、位一級をすすめて<従五位>を賜った。

 

なお、様々の弔詞のうち、太吉が心の友として肝心相照らした太田黒重五郎の詞が、故人の人格、徳、功績などを余すところなく述べているので、載せておくことにする。
「―(前略)―私は今迄多数の友人を持った。しかし心の友はわずかに二人。一人は書生時代に長谷川辰之助君、即ち二葉亭四迷。もう一人は私の尊敬する麻生大人。私は生来粗雑、大人は細心周到。私は常に心に、大人を師として学ぶところが多かった。私は今貴方の霊柩の前に立ち、永年の御懇情に対して厚く御礼を申し上げる。
大人、君は少壮にして身を鉱業界に投じ、拮据奮励幾多の難関を切り抜け、遂に大成、独り九州に於いてのみならず、広く日本鉱業界の重鎮となり、永く之を指導し大いに国家に貢献せられたるは世人周知のところ、常時君と轡を並べ鉱業界に馳駆せし傑物、蓋しすくなからず、しかも塹然一頭地を抜き、自家の事業を大成し、後広く鉱業に電気に、力を国家に尽くされたる上に於いて、大人當さに王座を占むるもの。―(中略)―全く大難に遭って顕はれたる大人の細心、沈勇、果断は、人生成功の三大要素。而して大人は生まれながらにして、この三大要素を持ちたる、波乱盛衰多き鉱業界に六十年間奮闘、而して見事に大成せられたるは、洵に偶然にあらず、以て後の世の範とすべし。
大人、君は家庭の人として後、遂に幸福の人となり。「太賀吉は中々よく解って居ります。あれの将来に、私は望みを持ちます」と。―(中略)―
大人不幸にして病を得るや、令孫の厚き心からなる看護を受けられ、その病の革まり當さに永久の眠りに入らんとせらるるや、静かに令孫に守られ、安らかに大往生を遂げられた。大人、君、業は大成、齢喜寿を迎え、後嗣令孫あり、君は実に福禄寿を全うするもの、私は今大人の霊前に、涙を以て告別の辞を述べる。しかも喜を以って之を終らんとす。大人で以て瞑すべし」
式は午后四時半に終わった。
間もなく冬の淡い夕陽を浴びながら、柩は葬列を整え、住み慣れた本邸を後に、静かに墓地に向かった。そして墓前で最後の読経ののち、故ヤス子夫人の側で、永劫の眠りについたのである。

 

そして一ヶ年後の昭和九年(一九三四)十二月八日に、生前の太吉の偉容をふますところなく現した銅像が、邸内に建てられたのである。
この建立に当たって、太吉の後を継いで社長に就任した麻生太賀吉が、除幕に際して次のような感謝の辞を述べている。
「麻生家従業員一同は、故祖父の徳を追慕すること深く、銅像を建立して謝意の一端を披瀝せむとす。乃ち相謀りて基金を醵出し、これを余に贈れり。余その志に従い、直ちに製作を安藤照氏に依嘱せし処工見事に成り、本日除幕式を挙行するに到れり。像を仰げば祖父なほ生けるが如く、宛も先祖伝来の地に立ちて、我等子孫を見守るに似たり。寄贈者の厚意、誠に感激の他なし。斯に芳名を勒して、不朽に伝へ、併せて銅像建設の縁由を記す」と。

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