<その頃の世情と麻生>
太吉の逝去は、何かを暗示しているかのように、それ以後、つまり昭和十一年(一九三六)からの日本は、暗い時代に突入していった。
まずそれは昭和六年(一九三一)の満州事変に端を発し、翌七年(一九三二)戦火は上海に飛火した。そして軍事力をもって満蒙の権益を掌中に納めようとした軍部は、清朝の廃帝の溥儀を執政とした傀儡政府の『満州国』を樹立したのである。
これに対し米国、英国をはじめとして、中国に権益を有する列国は、日本のこの軍事行動を九カ国条約違反とみなし、激しく抗議し、イギリスはリットン卿を団長とする国際連盟調査団を派して、現地の調査に当たらせた。その結果、昭和八年(一九三三)三月、国際連盟総会で四十二対一(日本)をもって、日本の主張は斥けられ、わが国は連盟を脱退することになった。
そしてその間、昭和七年(一九三二)二月には前蔵相の井上準之助が、三月には三井財閥の団琢磨が暗殺され、五月には白晝、犬養首相が官邸で青年将校によって射殺されるというテロ行為が相次いで起こった。これによって政党内閣は終わりを告げ、以後、内閣の総理は軍部出身者か官僚、または貴族に限られ、いわゆる一切の自由を圧殺する、挙国一致内閣が続くことになる。
さらに昭和十年(一九三五)八月、皇道派の将校が局長室で陸軍省軍務局長の永田鉄山を斬殺し、その公判中の翌十一年(一九三六)二月二十六日には、在京師団の将校たちが、部隊を率いて叛乱をおこした。これによって高橋是清蔵相、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監らが殺され、鈴木貫太郎侍従長は重症を負った。狙われて難を免れたのは、岡田啓介首相と元老西園寺公望、前内大臣牧野伸顕であった。この叛乱軍は四日目にようやく鎮圧された。
だが軍部はますますその軍事力を中国全土に投入し、国内では経済も財政も国民生活も、すべて軍国主義一色に塗りつぶされていった。同時に新聞、雑誌なども厳しい検閲を受け、言論の自由も圧殺され、メーデーも禁止されるに至った。そして必然的に経済は軍需産業を中心に急速に発展していき、勢いその生産のエネルギーとしての石炭の増産も、国策的見地から促進されるようになった。
この頃麻生も、東京出張所(丸の内・日清生命館、現在の野村ビル本館)を開設し、前後して吉隈山の神坑が、続いて豆田八坑、愛宕坑などが開坑され、増産の一翼を担うようになったのである。
<太賀吉、社長に就任>
先に父太郎を失い、今また祖父太吉の死に接した麻生太賀吉は、若くして全麻生を背負っていかなければならない運命にあった。そのような星の下に生まれた自分を醒めた目で眺め返すことのできる育てられ方も既に身についていた。自らの意志を殺して、全麻生を守る―。常々そう思って事に当たるというふうであった。
太賀吉は、小学校の一年を飯塚で過ごした。しかしその後、父太郎の急死に遭い、母方の加納家から、これからの勉強は東京でしなければ、との意見に従って上京し、加納家の祖母の下から学習院に通うことになった。だが間もなく関東大震災に遭い、その時太吉は、麻生を継ぐべき二人の息子を不幸な事故で失っていることから、今ではただ一人の後継者となっている太賀吉を手元から離して遠くへやっておくことに不安を覚え、学習院中等科一年生の二学期に、福岡へ連れ戻して、福岡中学へ入学させたのである。
そして卒業後は、今後の教育をどうするかということで、野田勢次郎の意見を入れ、地質学の泰斗であり、人格的にも尊敬を集めている九大の河村幹雄博士に預けることになった。河村博士は、理想的な教育をするため太吉と相談して『斯道塾』を開設して、そこで太賀吉の教育に当たったのである。そして河村博士が亡くなってからも、九大に通い、一般教養から採鉱や地質学などを勉強した。
このようにして昭和九年(一九三四)一月二十六日、太賀吉は二十四歳の若さで、二代目の社長に就任したのである。
そのことを九州日報(現西日本新聞)は、次のように報じている。
「麻生商店(資本金一千五百万円、払込金一千七十万円)では、二十六日午前十時から飯塚市の本店にて、臨時株主総会を開き、前社長麻生太吉氏の後任社長に、麻生太賀吉氏を決定した。
新社長より就任の挨拶があり、相羽理事が社員を代表して謝辞を述べるとともに、太賀吉新社長が、昨年一月から麻生経営の各鉱業所に入って、実地に調査研究をに当たっていたことなどにも触れ、新社長の就任を拍手をもって迎えられるよう述べた」
また太賀吉は同二月一日に、産業セメント鉄道株式会社(福岡県田川郡後藤寺町)の社長にも就任した。その頃のことを、後にこのように自ら語っている。
「なにぶん、齢が若いので、叔父二人が後見役でいろいろと面倒をみてくれました。そして私がその時、守って良かったということがあります。うちは浄土真宗ですが、祖父太吉は臨済宗の間宮英宗管長さんなどとよく交際しておりまして、その管長さんが私に、祖父の七光りはある。つまり祖父の余韻は三年残る。たから三年間様子を見て、自分でこれならやっていける、と思うようだったらやりなさい。やれる見込みがなかったら、未練は残さずさっさと身を退いて、叔父さんたちに頼んで会社の経営をやってもらいなさい。無理したり、変なことは一切しないがよい、と言われたのです。
私はその時、なるほどと思いまして、私なりにあることを決めたのです。それは向こう二年間は如何なることがあっても絶対といって良いほどハンコを捺さない、つまり、自分でメクラ判は捺さないということです。だからその間は大した仕事もないので、専ら石炭やセメントの現場に入って、実地の勉強に精を出しました。と同時に、それは多くの社員を知る上でも、後年大いに役立ちました。そしてそこから、私は社員養成が如何に大切か、ということを学びました。自分で言うのは少しどうかと思われますが、お前は会社のために何をやったか、言われれば、私の過去の仕事の中で、一番懸命にやったのは、本当にこの社員養成ということかもしれません」
そう言って太賀吉は、また麻生の家訓ともなっている『程度大切、油断大敵』ということを腹の底に据え、今後いかにして麻生を守り、そして時代の荒波を切り抜け、乗り越えて行くかに日夜心を砕いていくのであった。