麻生百年史

第五章 戦中期
炭業第四期時代

48.二代目社長、太賀吉就任

<太賀吉の人づくり>

 

この太賀吉が人づくりに専念したことは、麻生にとっては大成功であった。少年時代に河村幹雄博士の斯道塾によって薫育された太賀吉は、その遺訓をついで『麻生塾』を設立している。そしてこの中から後年多くの人材が輩出され、第二の麻生を築いているのである。と同時に、祖父太吉との相違をはっきりと認識して、そこから自身の生き方を学びとってもいたのである。
このことについて太賀吉はこう述べている。
「実は父が会社に関係した大正五、六年(一九一七)頃には、あちこちからいろんな人たちが入ってこられた。それが父が亡くなってしまうと、一人去り二人去りして、皆いなくなってしまいました。それというのは、祖父太吉はその性格からして、何でも率先して自らやってしまう。極端な言い方をすれば、自分とタイピスト、つまり自分の言うことをよく聞くものさえおれば、仕事はどしどし運ぶ、というワンマンの性格でしたから・・・。だから辺りを見廻しても、これはという人が少ない。相談相手になる人間がいないわけです。何を言っても“イエスマン”で“ノー”というものがいない。偉かった祖父だからそれで良く、またその信念を貫いて現在の麻生を築いたのですが、他の人では到底不可能なことでしたでしょう。また時代も進んできていますし、人々の考え方も変わってきていますから・・・。それでこれではいけないと思い、生え抜きの“麻生マン”をつくれたら、と社員養成にいちばんウエイトをおいたわけです。」
このように太賀吉は、祖父の長所と短所を的確につかんで、祖父の時代にないものを目指したのである。そして当時の福岡中学の卒業生のうち、家庭の事情で上の学校へ行けない者の中から、先生たちに推薦してもらって、毎年何人かを高校、大学へ行かせる学資などを出したのである。しかも卒業後のことは無条件にしたが、特別な者を除いて、大方の者が麻生に入社してきている。この人たちが、現在の麻生を背負う中堅幹部となっているのである。だから普通の会社の社員とものの考え方が少し異って、雇用関係を超えての結びつきがあり、また家庭的な面の良さもある。これが後に戦後の混乱期にも他社のように厳しい労使の対立、抗争から免れた一因ともなったのである。
このように太賀吉の人づくりには並々ならぬものがあり、これが徐々に実って、第二の麻生を形成していくのであった。

 

<太賀吉の結婚>

 

社長として太賀吉は、昭和十一年(一九三六)九月から翌十二年(一九三七)二月の五ヶ月の間、海外の事情視察に出かけていった。
その間に全く偶然のことから、結婚の話が起こったのである。しかもそれは帰途の浅間丸の船上で、実業家で政財界にも顔の広い、白州次郎との世間話から切り出された。
海の長旅に無聊をかこっていた白州から何気なく、「どうだ、麻生、お前もそろそろ結婚しないか。それとも、既に誰かいい人でもいるのか」と、言われたのだ。
これには太賀吉も軽い気持ちで、「いや、そんな特定の人はいないが・・・。そろそろね・・・」と、他人ごとのような顔つきで言うと、「そうか、それなら一つおれに世話させろ。いいのがいるんだ」と、一膝乗り出してきた。「そんなにうまくいいのがいるかな・・・」と、笑って応えると、白州は急に胸を張って、「うん、目星をつけているのがいる。お前もよく知ってる娘さんだ」「私が知ってる・・・」「そうだ。吉田(当時駐英大使、戦後の首相)の次女の和子さんだ。どうだ」
これには太賀吉もちょっと驚いた。というのは、吉田和子とはロンドンでいくども会い、また妹の辰子といい友達でもあったばかりでなく、実はこの話は同じくロンドンに来ていた加納の叔父(母方の)から、すでに話を切り出されていたからである。その時は、「仕事が忙しくて・・・」と、逃げようとしていたが、「馬鹿者!、人生とはそんなもんじゃい」と、一喝され、半ば叔父に一任した形になっていたが、いまはその話を白州に言うと、「ああ、あの叔父さんか。しかしあの叔父さんではちょっと難しいぞ。なんといっても、吉田のおやじは頑固もので、しかも和子さんを可愛がって秘書代わりにしているぐらいだからな・・・」と、言った後、さらに「ここはいちばん、おれに任せろ。おれがうまく段取りをつけてあげるから・・・」と、厚い胸を叩いたが、太賀吉は少し気が重くもあまり期待もしていなかった。
実際問題として、若い社長としていろいろと学ばなければならない問題が山積し、早く一人前になって、周囲の叔父たちの手を煩わすことの少なくなるよう、日夜努力していたことから、加納の叔父に言ったように、結婚どころではなかったのだ。
しかしことは本人の知らぬ間に進んで、ある日、牧野伸顕伯(吉田茂夫人・雪子の父)からの呼び出しがかかってきた。その頃太賀吉は、石炭業界の会合などで、月に一度は上京していたので、その機会に牧野伯に会うことにした。が、いくど会っても煮え切らない態度に、だんだんとこのテストじみた会見が気重くなり、ある日、「いままで三回お目にかかってますが、テストばかりでいったいどうなのです。私は九州に住んでますから、もし結婚しても嫁をそうたびたび東京に連れてくることはできないでしょう。私としてはこの際頭を下げてまでもらおうとは思いません」と、中っ腹のままで言った。
この話はあとで、もしあの一徹な吉田のおやじが耳にしたら“この馬鹿もん、そんな奴に娘はやれん”と、いっぺんにはねつけられたであろう。との笑話になった。
ところが牧野伯は、吉田茂に、「私は麻生君なら和子にふさわしい青年だと思う」と、書き送っていた。このように当人同士の交際はあまりなかったが、周囲の努力で実っていったのである。
これについて如何にも吉田茂らしいエピソードがある。
それは昭和十三年(一九三八)に、吉田茂が退官して英国から帰ってきたときのことである。太賀吉は、和子の兄の吉田健一(後に小説家・文芸評論家)と二人で、横浜港まで出迎えに行った。そしてランチで沖まで行き、吉田茂が乗ってくると、健一が「これが太賀吉だ」と、言うと、吉田はちらりと顔をみて「太賀吉って誰なんだ」と、そっぽを向いてしまうのだ。それで健一が重ねて、「和子のですよ」と、言うと、「和子のなんだ」と、知っているくせに、けんもほろろの態度である。照れ屋の上に、可愛い娘をとられたという感情が混って、中っ腹でトボけていたようである。
このようにして同年十二月十一日、神田の天主公教会で、九水重役の松本健次郎夫妻の媒酌により、華燭の典を奉げたのである。太賀吉二十八歳、和子二十四歳であった。このニュースは、太賀吉が九州実業界の偉才ということと、和子の父が前駐英大使の吉田茂であり、さらに和子が二年前に週刊朝日主催の、第二回の『ミス日本』に選ばれた麗人としいうことで、各紙は明るいニュースとして一斉に取り上げたのであった。
その一つに、<麗人早がわり、ミス日本からミセス日本へ・・・>と、いう見出しで、「この幸運な新郎は、九大に学び、また欧米をも視察した、筑豊炭業界に君臨する麻生商店ならびに産業セメント鉄道両社の若き社長で、その将来を嘱目されている新進気鋭の青年実業家である。いっぽう新婦は聖心女学院出身の才媛である。また新郎はクレー射撃の名手で、ミス日本の麗人を射止めたのも、当然のことであろう」と、報じていた。
式後は三時から帝国ホテルで戦時中にふさわしい披露宴が催された。新生活への首途を祝福された。そして二人は結婚の記念として、飯塚市の図書館建設資金に四万円(三万円は建築費、一万円は図書購入費)の寄附を申し出た。
このように人々の祝福を受けて、太賀吉社長は、和子夫人という良き伴侶を迎え、後顧の憂いなく、事業に専念することができるようになったのである。
またこの年は、麻生商店にとっては会社創立二十周年に当たり、その記念式典が盛大に挙行されるという二重の喜びの年であった。その記念事業の一つとして『株式会社麻生商店二十周年史』が刊行され、また河村幹雄博士や野田勢次郎に酬ゆるために、九大理学部に創設基金として百万円(現在の四十億~五十億にあたる)を寄附した。
さらに『財団法人・斯道文庫』の設立、技術員養成所の設立計画から『連合譲和会』へ寄附と、福利施設などの促進の計画を発表したのである。

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