麻生百年史

第五章 戦中期
炭業第四期時代

49.臨戦体制

<太平洋戦争までの道のり>

 

このころ近衛内閣は、一部の閣僚の更迭を行い、戦争不拡大方針を打ち出していたが、徐々に圧力をかけてくる軍部の前には、手の施しようもなかった。軍はそのような内閣の方針にかかわりなく、広東、武漢三鎮と次々に中国の要衝を占領し、また中国側も国民軍をもって激しく抵抗し、抗日民族統一戦線を結成して、いよいよ戦争の局面は長期化の様相を深くしてきた。
一方欧州では、ドイツがチェコスロバキアを併合し、続いてポーランドに侵入したため、ここで英仏も参戦し、第二次大戦がおこった。昭和十四年(一九三九)九月である。
そして昭和十五年(一九四〇)三月には、重慶を脱出してきた王兆銘を首班とした、反共和平の傀儡政府を南京に成立させると共に、一方では、日独伊の軍事同盟を締結して世界戦争に突入していったのである。
このような状況の下では、当然戦時体制が一層厳しく敷かれ、経済、産業界では国家総動員法により、物資や労働力のすべてが政府の思いのままに動員されるというように変貌していった。これにより当然、鉄・石炭・石油・ゴム・錫などは、戦争遂行上の重要物資とされ<重要産業五ヵ年計画>及び<軍需品製造工業五ヵ年計画>等によって、その増産に拍車をかけられるに至った。
麻生においても石炭連合会の意向にそって、石炭の増産に総力をあげ、記録的な数字をあげた。つまり出炭量は上期において五十万トンに達した。また一方、セメント部門では田川工場で第一号キルンの火入れが行われ、セメント事業を開始し、続いて二号キルンの火入れも行われ、また嘉麻鉱業も創立された。
しかしこの間、不測の災難も続いて起こった。吉隈二坑の坑内失火で、二十九名の死者を出し、また岳下坑の出水のため、稼動不能となり、さらに綱分四坑でガス爆発がおこり、三十九名にのぼる死者を出すに至った。しかし間もなく岳下坑も再開し、さらに赤坂山倉坑、上三緒本坑、豆田土居二坑なども開坑された。
そして九月には、麻生商店は嘉麻鉱業と合併し、資本金は二千六百万円(内払込一千二百二十万)に増資された。このとき太賀吉社長は、全職員を集めて次のような要旨の話をしている。
「この会社で一番働かないのは重役だ。同族会社だからといって同族以外の者が重役になれないなどと、そんなことはない。社員の中からでも重役になってもらって、一緒に仕事をしよう。配当は三分だが、麻生家および重役はこれで充分。これ以上配当を増やそうとは思わない。その金があったら、三井、三菱とまでいかなくとも、出来る限り職員の待遇に廻す。それと同時に社会事業の方にも使っていくつもりである」
そう語って全麻生の職制を改革し、また若松、神戸、大阪などの出張所を支店に昇格し、名古屋に新たに出張所を設けた。
いっぽう政府は、その後ますます物価抑制政策を強化し、九月一日から石炭は、現行最高標準価格引下げを打ち出し、十月一日から〈石炭配給統制規則〉を公布し、燃料炭、発生炉炭は切符配給制度に移行した。
翌十四年〈一九三九〉になると〈石炭販売取締規則〉が発表され、全炭種に配給統制が強化され、一方では鉱業報国運動もおこされた。さらに十五年〈一九四〇〉二月には、石炭の増産計画が決定された。その内容は、増産目標六百万トンにトン当たり奨励金五円を坑道掘進補助費二千万円、一元的配給会社買上げ補助金六千万円を出費する、というものであった。この年の石炭出炭量は、史上最高の五千七百三十一万トンで、九州地区では三千三百五万トンを記録した。
また〈重要産業団体令〉につづき、石炭鉱業連合会、筑豊石炭鉱業互助会などが吸収され、石炭統制会および石炭統制組合の設立となった。これによって、石炭産業から私企業の性格は完全に消失し、業界は一体化され、戦時国家統制下におかれるに至ったのである。

  • 前のページ
  • 目次へもどる
  • 次のページ