麻生百年史

第五章 戦中期
炭業第四期時代

50.戦う麻生

<戦争と石炭増産>

 

昭和十六年〈一九四一〉は、好むと好まざるによらず、世界が戦争の回避に奔走しながらも、まるで膿をもった腫瘍が如何なる注射も効かず破裂するように、資源確保の経済戦争に突入していかざるを得なかった不幸な年である。欧州ではドイツが独ソ不可侵条約を破棄して、怒涛の如くソ連領深く雪崩れ込んでいった。六月二十二日である。
これに対して日本でも、陸軍と松岡外相が、この機を逃さずただちにシベリアに進撃して、背後から撃つべしとの意見を主張したが、これは海軍と近衛首相の慎重論によって喰い止められた。しかし陸軍は大演習という名目で、対ソ戦準備のため陸軍史上最大の七一万の兵力〈当時の陸軍兵力の三分の一〉と、資材の動員を行ったのである。と同時に、資源確保ということで、まず南部仏印(仏領インドシナ)に強行進駐して、南方進出の足がかりをつくった。
しかしこれを機に、米・英・仏・蘭が包囲網を締めつけ、軍事的にも経済的にも圧迫を強化し、米英両国は領土内にある対日資産を凍結、また米国は対日石油の輸出を禁止した。これらによって事実上、日米交渉は半ば暗礁に乗り上げていた。
しかしその頃ドイツ軍が、得意の電撃戦でウクライナ平原を突破し、レニングラードを囲み、破竹の勢いでモスクワに向かって進撃していたことで、日本の陸海軍は、殊に東條陸相と松岡外相はドイツ軍の勝利を信じ、近衛首相と対米交渉で正面から衝突していた。そして遂に十月十六日、近衛は内閣を投げ出し、その翌々十八日、現役のままで東條が内閣を組織して陸相、内相をも兼任した。この東條内閣の出現はアメリカの態度をますます硬化させ、表面上はお互いに折衝をつづけながらも、両国とも最悪の事態に対処できる準備を急いでいた。
しかし海軍だけは終始消極的で“開戦しても二年がせいぜいで、これ以上は難しい”と主張したが、その反面、石油やその他の物資の禁輸で、いわゆる“ジリ貧”に陥ってからでは時すでに遅く、今のうちなら南方を確保すれば、との苦しい立場で、「海軍としては、戦争を欲しないと正式に言える立場ではない。が、現在言いえることは、もうここまで来たら首相の裁断に一任、ということだけが精一杯である」と発言したのである。これで海軍の諒解をとったと考えた東條は、十一月五日に、来栖大使を米国の野村大使の交渉補佐のため米国に派遣する一方で、九州の佐伯湾で待機中の連合艦隊に、作戦準備命令を出し、陸軍も寺内大将に南方要域攻略の準備命令を出したのである。 
そして日米交渉における「満州事変前の状態にもどせ」という米国の強硬な要求の壁に当たって、遂に十二月一日の御前会議で、正式に開戦に踏み切ったのである。そして十二月八日、海軍は真珠湾を奇襲攻撃し、対米英戦争を開始した。この不意打ちは、実は既に米国の首脳部では確実な情報として知っていたが、最初の挑発、最初の一発を待ち受けていたことから、わざとハワイの司令官には通報せず、これによって「リメンバー・パールハーバー」という合言葉をつくりあげ、それを旗印にして国論を対日戦争に巧みに統一させたといわれる。しかしこれによって、米国は太平洋艦隊の主力の大半を失った。またドイツ、イタリアも、米国に宣戦を布告し、世界戦争へと拡がっていったのである。
一方国内では、この史上空前ともいえる難局に対処するために、軍需産業の生産拡充の至上命令が矢継ぎ早に出され、殊に石炭はすべてのエネルギー源として増産につぐ増産を余儀なくされた。すなわち石炭増産五ヵ年計画、石炭増産奨励金の交付、大日本産業報国会の設立、石炭鉱業連合会の解散、石炭統制会の発足等による、増産運動が繰り広げられ、またさまざまな増産期間なども設けられた。つまり〈全国石炭増産強調期間〉〈全国炭鉱生産力拡充強調期間〉〈戦時非常石炭増産期間〉などなど、徐々にヒステリックとなり、〈挙国石炭確保激励期間〉〈決戦必勝増産運動〉と、いわゆる“月月火水木金金”の労働が強いられるようになった。
「石炭なくして兵器なく、石炭なくして国防なし。切羽は切刃にして即戦場なり]と松本石炭統制会長は叫び、また東條首相は、「石炭こそは、戦力増強の母」と、号令し、岸信介国務相まで、「敵の物量攻勢に対して、石炭増産をもって戦え。全鉱上下心を一にして、鉱業報国に邁進すべし」と、政府が先頭に立って尻を叩き、また各地のヤマには〔たのむぞ、石炭〕〔飛行機も軍艦も弾丸も、石炭からだ〕〔石炭の一塊は、血の一滴〕などとのスローガンが貼られ、休む間もない増産に追い立てられていったのである。一方労働力の面でも、初めの頃は青、壮年が主力であったが、次々と兵隊にとられていって、その補充に朝鮮人労働者や中国人俘虜などが当てられるようになった。
しかしミッドウェー海戦後、太平洋における主導権が米国に移りかける頃から、資材不足、熟練鉱員の不足に加えて、食糧難が徐々に広がって、それらによって石炭の生産高は下降の一途をたどりはじめ、昭和十六年(一九四一)の開戦期にくらべ、六〇%台までに低下した。

ガダルカナル島進攻によって米国の一斉反攻が始まり、マーシャル群島、トラック島、パラオ諸島からマリアナ諸島、サイパン島と次々に連合軍の手におちていった。その頃には、もう炭坑現場では、無謀とも言える乱掘につぐ乱掘が続けられ、ヤマは荒廃し切っていた。
そして三国同盟の一角のイタリアは、昭和十八年(一九四三)に、連合軍の上陸によって無条件降伏し、ドイツ軍もまたスターリングラードの攻防戦に破れ、後退をはじめると共に、連合軍のフランス上陸により、東西両戦線から圧迫され、遂に昭和二十年(一九四五)五月、ベルリンが連合軍とソ連軍によって陥落し、無条件降伏した。日本もまた昭和二十年(一九四五)三月の、米空軍の東京空襲にはじまり、次々と主要都市の大半が焦土と化し、国内産業は麻痺状態に陥り、フイリッピン、硫黄島、沖縄と米軍に上陸され、続いて広島と長崎への原爆投下と、ソ連の参戦で、五ヵ年間の悪夢のような戦いに終止符が打たれたのである。昭和二十年(一九四五)八月十五日、ついに日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。

  • 前のページ
  • 目次へもどる
  • 次のページ