麻生百年史

第五章 戦中期
炭業第四期時代

50.戦う麻生

<戦時下の麻生>

 

政府は増産につぐ増産を指令督促しながらも、国内だけの出炭量では戦争遂行上いずれは資源不足に突き当たる不安から、南方進出と共に、南洋の石油、石炭の開発獲得に乗り出したのである。
その指令が麻生におりたのは、昭和十七年(一九四二)の二月であった。石炭統制会を通じ、海軍軍需局から太賀吉社長に呼び出しがあり、「実は南ボルネオのロアクールとブラオ炭鉱に、相当良質の石炭があるようだ。それで現地に行って開発に当たって貰いたい。勿論海軍の管轄で採掘するから海軍の下請としてやってもらいたい」と、言ってきたのである。
そこで太賀吉以下百二十人は、海軍の嘱託の肩書きで現地入りするとともに、外地部を新設して、ボルネオのほかセレベス島のマカッサルにも事業部を設置して海軍の要請に応えることとした。
しかし結果は、麻生の協力にもかかわらず、その後の戦局の変化で、海軍が期待した初期の目的からはほど遠かった。
一方内地での麻生は、同年三月に吉隈鉱区と三菱鉱区との間で、一部鉱区の交換をし、また豆田鉱業所五坑が終掘となった。しかし五月には、上三緒の八坑が開坑し、八月には産業セメント鉄道の豊前大熊駅が開業された。
そして戦時に対応するため、全面的に内部組織の改革を断行し、また翌十八年(一九四三)三月には、遠東金山事務所を遠東鉱業所と改称、四月には各事業所別の青年学校を廃し、新たに麻生青年学校を設置、六月には新飯塚運送興業株式会社を新飯塚商事株式会社と改称した。
さらに七月には、産業セメント株式会社の鉄道部門を国鉄の要請で譲渡した。また九月には、麻生鉱山衛生研究所が新設され、十月には吉隈鉱区の一部三万六千坪(一一八万八千平方メートル)を田篭鉱業へ譲渡した。
そしてこの年に今までの〈労務員〉の呼称が〈鉱員〉と改称され、また全国的に鉱山鉱士制度が実施され、特級から三級までには手当てが支給されるようになった。麻生でも綱分鉱業において、今までの請負給が廃止されて、全額固定給に切替えられた。
さしてこの年、太賀吉は、セレベス開発鉄道株式会社の取締役に就任し、また九州水力電気株式会社の取締役にも就き、さらに財団法人大日本電気会九州支部の参与になった。

翌十九年(一九四四)に入ると、戦局はさらに悪化、麻生もついに“軍需会社”の指定を受け、“神風生産特攻隊”というようなものも組織されるとともに、再度、内部各機構の大幅な変更が行われた。
この間、太賀吉は幸袋工作所の取締役に就任し、また九州石炭統制組合の理事長に就いた。
そしてこの年に、赤坂鉱業所の霞坑が開坑され、岳下炭坑の再開に続いて、愛宕坑本谷の露天坑が開始されて、最後の増産態勢を一段と強化していったのである。

 

【付記】戦時中の麻生の海外進出事業 マカッサル事業所など

 

<マカッサル事業所>太平洋戦争さなかの昭和十九年二月、石炭増産の国策にそって南方の石炭資源開発に手をつけ、海軍燃料廠の協力でセレベス島にマカッサル事業所を設置した。
この事業所設置には、当時社長であった麻生太賀吉が特に力を入れ、全麻生の技術陣を動員、新鋭の設備と莫大な資金を投入し、太賀吉自身も二回にわたって現地を訪れて陣頭指揮に当たる一方、麻生本社内にも外地部を設置した。
設置当時の資金投入額は千五百万円であったが、逐次追加投入を行い、最盛時には従業員も二百人を越え、月産一万トンの生産を維持、石炭増産に大きな役目を果たしたが、終戦とともに一切の権益を失い昭和二十一年に閉鎖のやむなきに至った。

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