麻生百年史

第五章 戦中期
炭業第四期時代

51.敗戦の中で

<八月十五日前後>

 

黄色い閃光の中からぽっかりと、思ってもみなかった平和が焦土に訪れた。一瞬にして今まで踏まれていたすべてのものが、音をたてて崩れ落ち、国民は半ば放心状態で廃墟に立ち尽くしていた。
八月十五日、それまで「一億玉砕」「本土決戦」を叫んでいた軍部をようやく押さえ、〈ポツダム宣言〉を受諾、そして天皇の“玉音放送”となったのである。静まりかえった夏のよく晴れた昼、「ご聖断」の“玉音”は全国津々浦々にしみとおっていった。
殊に終わりの方の、「帝国臣民ニシテ廃陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致シ且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ」
そして、さらに「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」など悲痛極まりないものであった。この“玉砕放送”を聞いた直後の光景を、十五日付の朝日新聞は、二重橋の写真を入れ、『玉砂利を握りしめつつ、宮城を拝し、ただ涙』という見出しで、その後に「歩を宮城前にとどめたそのとき、最早私は立っておられなかった。抑へてきた涙が、いまは堰もなく頬を伝った。膝は崩れ折れて玉砂利に伏し、私は泣いた、声をあげて激しく泣いた」と記し、「二重橋前は嗚咽の声に埋まった」と、直後の情景を詳細に伝えている。
そのころ太賀吉は、炎天の下を会社に急いでいた。太賀吉は仕事の連絡などで、福岡の軍の総監府に出入りしていたことから、〈ポツダム宣言〉受諾も、それとなく聞き出していた。そのために他の人たちのような、突然のショックは少なかった。しかしそれだけに一層、麻生の今後のことが胸につまり、頭が一杯であった。動揺してはいけない、動揺の色を職員たちに見せてはならない、とじっと押え、何気ない態度で出社したのであった。
出社してみると、その日はちょうどお盆休みであったが、放送を聞いて心配した社員たちが大半出社してきていた。そしていずれも放心状態なので「これではいけない」と思った太賀吉は、胸中に山積する苦悩を押し隠すようにして、つとめて明るく、社員たちと話し合おうと思ったのである。
「社長、大変なことになりましたが、日本はそして会社は一体どうなるのでしょう」
太賀吉自身にしても、今後のことが解る筈のものでもない。敗戦という実感も今のところは言葉だけのことで、今後押し寄せてくるであろう様々な苦難に遭って、はじめて具体化することである。といってここで自分まで敗戦という言葉の影におびえうろたえては、一層動揺が社内に及ぶと思い、まず幹部職員を集めて話すことにした。
「誠に残念なことだ。しかしお上が国と国民のことを思って決断されたことなのだから、とやかく言うことはないと思う。もうそのことは終わったことなのだ」この太賀吉の冷静な態度に、反撥の色を示す職員も何人かいたようだが、太賀吉は社長として半ば無視して話しを続けた。
「これからどんなことが起こってくるか、予測はできない。だがどのような事態が起ころうと、国があり国民がいるのだから、我々の祖父が、そして麻生としては、初代の太吉社長が身をもって切り拓いてきたように、一からやっていくという気持ちになればよいのだ」
「アメリカ軍も上陸してくるでしょうね。そうしたら、今までのような状況とは全く違ってきましょう」職員の一人が言った。
「いずれそうなろう。だが結局は日本の復興という結論だよ。今度は受けて立つ気構えが必要で、弱気になったら相手にいいようにされる惧れも出でくるだろう」深く頷いている職員もいた。
「だからここは、お上のお言葉にあったように、じっと堪え忍び、乱掘で荒れた坑内を整備して来る時を待とう。そうじゃなかろうか・・・。お互いに今はじっと我慢しょう」と言って、つとめて明るい顔つきで立ち上がった。
その後も、たびたび職員たちと膝を交え、敗戦のショックからくる暗い社内の雰囲気の一掃に務め、気分を一新して社の建て直しに奔走しはじめたのであった。

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