麻生百年史

第五章 戦中期
炭業第四期時代

51.敗戦の中で

<混乱から復興へ>

 

敗戦の現実は、まずマッカーサーが八月三十日、厚木飛行場に到着したときに始まった。続いて主力部隊が横須賀と横浜に進駐してきたが、終戦と同時に急遽組閣された東久邇宮内閣が敗戦処理にあたっていた。
そして九月二日午前九時に、東京湾上に停泊していたアメリカ軍艦ミズリー号上で、連合国最高司令官のマッカーサーと重光葵日本全権との間に正式降伏文書の調印がおこなわれた。これによって日本は連合国の支配下におかれ、九月になると全土は連合国の軍隊の占領するところとなった。このうち奄美大島群島は一九五三年に、沖縄は一九七三年にそれぞれ日本に返還された。ただ、当時ソ連の単独占領下におかれた千島列島だけは、いまだに返還されていない。しかしこの占領で日本に幸いしたことは、米軍の他にはほんの僅かな英連邦軍が進駐しただけで、国が分裂にさらされるというドイツや朝鮮などの悲劇からは免れることができたことである。
しかしこれによって、日本は明治以来のすべてを失い、領土も四島(本州・四国・九州・北海道・その他の小島)約三十七万平方キロメートルになってしまったのである。そして連合軍総司令部は、「日本への管理意図は、日本の侵略的な軍事主義を排除して、民主主義の新しい国家を建設することを目標とする」と声明し、一切の軍国主義的なものの排除、治安維持法、特高警察などの廃止から財閥の解体、政治犯の釈放などの措置が矢継ぎ早にとられた。続いて労働組合法が制定され、労働者の団結権、団体交渉権、スト権などが認められ、また農村においては、再度に及ぶ農地改革が実施された。
そして昭和二十一年(一九四六)十一月三日、新しい“日本国憲法”が公布され、翌年(一九四七)五月三日から施行されることになった。新憲法は前文で、主権在民を明らかにし、次いで天皇は日本国民統合の“象徴”であると謳い、第九条では世界で初めて、永久の戦争放棄を明記したのである。
このようにして、さまざまな改革が急速に次々と断行され、片山、芦田両内閣を経て昭和二十三年〈一九四八〉十月、第二次吉田内閣〈第一次は昭和二十一年五月から同二十二年三月まで〉が成立した。この吉田内閣は、第五次の昭和二十九年〈一九五四〉十一月までの長期政権を担当し、混乱期における日本再建の基礎をつくりあげる大きな功績を残した。
その間、朝鮮戦争が起り、日本は派遣米軍の兵員、兵器、物資輸送の中継地、補給基地としての役割を果し、この特需が呼び水となって、日本の産業界は息を吹き返して急速に戦前の生産水準を回復、さらに高度成長へと発展していくのである。
また昭和二十六年〈一九五一〉九月には、サンフランシスコで、講和条約と日米安全保障条約が調印され、日米の関係は新しい局面を迎えて、固く結ばれるようになった。

いっぽう戦後の産業界の実状は、一時は全く虚脱放心の状況に近く、ことに炭業界は労働力と資材の不足、昂進するインフレなどで、出炭高も敗戦時の五分の一に落ち込み、加えて戦時中の乱掘がたたって、坑道も荒れ果て、事故が続出する有様であった。この石炭の不足は、必然的に製鉄所をはじめとして、全産業を麻痺状態に陥らしめる惧れがあるとみた政府は、その頃ではなかなか手に入りにくい主食をはじめとして、衣服、煙草、酒などの特別配給を行い、労働力確保に乗り出したのである。これは戦災者、引揚者、復員軍人をはじめとして、食うや食わずの一般市民にとっても、「炭坑に行けば衣食住の心配はない」ということになり、労働事情は徐々に好転していった。
昭和二十一年〈一九四六〉十二月に、吉田茂首相〈第一次吉田内閣〉は、まずエネルギー源として、すべてに優先して、石炭の確保の至上命令を出した。そして採炭された石炭を、すぐ製鉄所などに送り込む、いわゆる『傾斜生産方式』を採用して、生産水準の上昇確保に努めた。
これにより昭和二十二年〈一九四七〉の九州の出炭高が、一五〇〇万トンから二十四年〈一九四九〉には二〇〇〇万トン台までに急激に上昇し、再び『教国増炭月間』とか『石炭非常増産対策要綱』などと、さまざまな手が打たれ、戦時中に劣らぬ増産に駆り立てられていったのである。
このとき太賀吉にまつわる面白い話がある。それはこの増産運動に、米軍のバトラーという炭鉱調査団の一行が、現地視察と督励をかねて麻生鉱業にやってきたときのことである。太賀吉は、社長として挨拶をしたが、当時は胸のうちで苦々しく思っていても、総司令部の軍人に敗戦国の一事業人が、面と向かっては大いにはばかれる言葉を、平然と口にしたのである。つまり、「現場を視察して、現状を理解していただくことは有難いが、そのために多額の費用がかかり、かえって迷惑である。石炭のコストも高くつきます」と、言ってのけたのである。
もっともこれは、日本語そのままを伝えたわけではなく、和子夫人が適当に通訳したようなので、問題にはならなかったが、太賀吉にはそんな馬鹿正直ともいえる骨太の一面があり、このことは当時業界で評判になった。いざとなると、ひょいと地の顔を出す、そんな反面があるが、さらに社長・太賀吉を知る上での良きエピソードが次にもある。

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