麻生百年史

第五章 戦中期
炭業第四期時代

51.敗戦の中で

<吉田総理と太賀吉>

 

それは経済復興会議でのことである。
昭和二十一年〈一九四六〉の四月に「敗戦のショックで昏迷している日本経済の再建」をうたって、諸井貫一、堀田庄三、永野重雄などを中心に、中堅のいわゆる財界二代目を加えて経済同友会が発足したが、太賀吉も地方代表としてメンバーに入ったのである。
当時は総司令部の指令で、独占禁止法と過度経済の集中排除法が制定され、いわゆる財閥解体によって、三井、三菱、住友をはじめ、安田、浅野、鮎川などの中堅クラスの財閥に至るまで解体されたが、麻生は職種が石炭しか扱っていないという理由で、解体を免れていた。そして昭和二十二年〈一九四七〉四月に、経済復興会議の第四回の中央委員会が開かれたときのことである。同会議の議長は鈴木茂三郎、副議長は大塚万丈、麻生太賀吉、原彪、菅道の四人であった。当日、議長と二人の副議長が欠席したため、太賀吉が議長に選ばれ、副議長は産別会議議長の菅道であった。この奇跡ともいえる組み合わせも、当時としては、労働側も結成後日が浅く、また経営者側も労使の意思疎通によって戦後経済の建て直しを意図していたことから、さほど不自然でなく行われたのである。
しかし時が経つにしたがって、両者の隙間は広がる一方で、いわゆる“水と油”のように同化できず、対立を増していった。このときも、産別側がこの会を“闘争”の場に利用しようとしていることを見抜いた同友会側が、解散にもっていこうとしたのに対して、産別側は食い下がってきたのである。
「お互いの立場上、意見の相違があることは現時点では当然のことであり、これはむしろ新しい方向を目指す意欲の現れともとることができ、喜ばしいことである」と、強く逆手をとって迫り、さらに、「解散するなどとは、それこそ完全な後退でしかなく、旧態依然たる資本家の殻を脱しきれないものである」と、反対したのに対し、同友会側の一部もこれに同調しかけたが、そのとき議長の太賀吉は決然と立って、「これは産別の戦術にすぎない」と言って、間髪をいれず解散を宣言してしまったのである。この相手に有無を言わさぬ鮮やかな手際は、人々から驚きの眼でみられ、「さすがに吉田総理が選んだ婿さんだわい」との評が専らになり、財界での太賀吉の株が大いにあがったのである。
また太賀吉は、この岳父の吉田茂を心から尊敬し、私淑していた。若くして父に死なれた太賀吉が男親の姿を彼に見出そうとしていたのかもしれない。吉田もまた戦前の不遇時代に、雪子夫人に先立たれた寂しさなどから、ことのほか娘の和子を可愛がっていたので、その夫の太賀吉をも憎からず思い、ことのあるたびに近くに引き寄せ、何かと話し合っていた。またお互いに頑固者同志という面もあり、両者はぴったりうまが合っていた。
太賀吉が同友会のメンバーになった頃、第一次吉田内閣が成立したのである。しかもその頃は、ちょうど革新勢力が急速に伸び始めた時期で、共産党の徳田球一などが先頭に立って、皇居前広場で十一年ぶりに二十万人を動員した“食糧メーデー”を行い、その流れが総理官邸にまでなだれこんでくるというような、厳しい時期であっただけに、太賀吉の経済復興会議での産別に対する毅然たる態度は、吉田にとってことのほか嬉しく、また心強く思われたのであった。
そして吉田は、山積する難問に心を砕いているときなど、ふと太賀吉を顧みて、「お互いに大変な乱世にめぐり合わせたものだ。しかし負けずに頑張ろう」などと話し合うというふうであった。
太賀吉は、本人自らがあまりに肌に合わないという代議士を三期つとめているが、任期中はほとんど吉田総理の秘書役か外部とのパイプ役で、岳父を少しでも助けるという役回りを自らに課して終始している。

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