<労使協調>
産業界がようやく軌道に乗り出したその反面、昭和二十年十二月に公布された労働組合法によって、続々と労働組合が結成され、矢継ぎ早の労働攻勢に経営者側は悩まされることになった。
昭和二十年〈一九四五〉十月には、戦後初の炭鉱労組『三井芦別労組』が結成され、筑豊では、昭嘉炭鉱ではじめて組合が結成された。
九州地方の鉱山労働組合は、伊藤卯四郎、光吉悦心、宮崎太郎〈以上、日本労働組合総同盟〉らが中心となって、組合結成に奔走していた。
経営者側は、この頃は敗戦の混乱と労使交渉の経験の未熟さから、ともすれば労働組合のペースに押されがちであった。
昭和二十一年〈一九四六〉の末には、九州の炭鉱労組は九二・四パーセントの組織率で、これは当時の工業労働者の組織率五〇パーセントに比べて、はるかに高率であった。
そして全国組織として、全日本炭鉱労働組合〈全炭〉及び日本鉱山労働組合〈日鉱〉などが相次いで組織された。
このような状況の推移に対処すべく経営者側は大手各社を糾合した『日本石炭鉱業連盟』を中央に、北海道、常磐、宇部、九州の各地にそれぞれ中小を含めた地方連盟を発足させている。
この労働攻勢の波は当然、麻生にも押し寄せてきた。
昭和二十一年〈一九四六〉一月十三日に、麻生連合従業員組合が、続いて二月には、麻生職員労働組合が結成され、また五月には産業セメント労組が組織された。麻生労連初代会長には本間仁太郎が就任し、職員組合長には江口義美がそれぞれ就任して、労働協約が結ばれたが、麻生における労働組合は、他の炭鉱の組合のそれとは、いささか趣を異にしていた。
結成当時のいきさつをみると、伊藤卯四郎〈故人〉と宮崎太郎〈後、元日本鉱山労働組合福岡県連合会長、福岡県議会議員〉の二人が、まず太賀吉社長を訪れて、懇談のかたちで話をすすめている。「もう大手の山などは、大半組合ができましたし、私どもも今度組合をつくろうと思っています」と、切り出し、続けて、「しかし組合ができたからといって、会社はあまり干渉せず、温かい目で見守っていただきたい。あまり上から押し付けたりすると、かえってよい組合は育たないと臣います。会社は、大枠を私たちに任せて、お互いプラスになる組合ができるよう、仕向けてもらいたいとおもいます」と、打診してきた。
これに対して太賀吉社長は、頷きながら、「よろしいと思います。その方針にそってやりましょう。一ついい組合をつくって皆をよく指導して下さい。おまかせしましょう」と、おだやかに回答をしたのであった。このように組合結成に際して、事前に会社側の社長に、ある程度の了解をとりつけるなどということは、当時としてはまったく異例のことであった。ここに麻生における労使協調の典型的な一つの形がある。
これでまず山内坑と愛宕坑に、麻生系として最初の組合が結成されたのである。また組合の運営の方法も他の組合と少し相違していた。麻生の労働組合は、総同盟の基本理念、つまり労働者が生産の担当者として、その責任の一躍を担っていなければ、組合員たる資格がないという理論の上に立っていた。また、麻生は他の炭坑に比べて自然条件や炭層条件が決して良くなかった。例えば、三井三池など優秀な炭層をもつヤマと同量の出炭をしても、麻生では実出炭はその五〇パーセントしかない、つまりボタを五〇パーセント掘らねば、スミは五〇パーセント出ない、という坑内条件のヤマがほとんどであった。その結果、他の炭坑よりも、出炭能率を上げなければ賃上げ交渉やボーナス斗争も出来かねるという状況を組合もよく認識し、あくまでも相互の信頼関係を基調とする団体交渉をねばり強く進めていった。従って、炭労系各社のように組合がストライキの赤旗をなびかせて会社に迫るという情景は、全くといっていいほど麻生の各山では見られなかった。
また大手の炭坑などでは、労働組合の委員長はだいたい一、二年で交代するのが通例であったが、麻生では連合会結成以来、森会長が停年までつとめるなど、ともかくも昭和二十一年〈一九四六〉から最終全面閉山の四十四年〈一九六九〉までの二十数年間に、連合会会長は本間、森、胡谷の三名にすぎなかった。このことは、組合に対して全くといっていいほど、内外の介入がなかったことを端的にしめしている。
さらに労使が対等であるというところから、団交に出席する組合員は、その時間分に相当する賃金カットをされるなどの厳しい措置が双方完全了解の上にとられていた。これは単なる一例であるが、他の炭鉱が労務対策に相当な出資をしているのに比べて、賢明な策であったといえる。
またあるとき、国税庁が調査にやってきて組合対策費や交際費が他の会社と比較して、あまりにも少なすぎるのに不審を抱き、再三厳重に調べるが、現実にはほとんど出費がないため、結局は半ば呆れて帰るというようなこともあった。
そして麻生労連におけるもう一つの特長は、民主主義の薄皮だけをかじったような多数決主義はとらず、お互いが焦点を絞って徹底的に納得がいくまで議論し合った結論で運営していくという、ある意味で真の民主主義に徹した組合運営方法であった。これは太賀吉社長の、多年の願いであった“人づくり”が、ようやくこのような形で現実に実ってきたということの一証左であるといえるであろう。