<炭鉱国家管理法>
戦後いちはやく進められた財閥の解体、それに伴う金融の再編成や独占禁止法などの影響とともに、石炭の国有化の問題が表面化してきた。
まず、昭和二十一年〈一九四六〉九月に連合軍総司令部から、『炭鉱の所有ならびに補助金支出の方法に関するメモランダム』が、日本側に示された。これは、政府部内でも論議をよんだが、大方は国有化に対しては否定的であった。しかし、同年十二月『石炭増産協力会』、翌年二月に『石炭復興会議』をそれぞれ発足させることによって、この問題に対する政府の態度を明らかにし、総司令部への協力体制を整えようとした。
ところが、昭和二十二年〈一九四七〉四月の総選挙の結果、社会党が第一党となり、六月には社会党の片山哲を首班とする社会・民主・国民協同の三党の連立政権が成立した。
この総選挙で社会党は、主要産業の国有化をスローガンにして戦い、ことに炭鉱の国家管理の大綱を公にしていた。それによると「労働者四人、技術者、事務者、経営者各一名で構成する経営委員会を炭鉱の経営の主体とする」を骨子としていたが、この基本政策によって、社会党は着々と石炭国管の準備をすすめようとしていた。
これに対して、九州の中小炭鉱の経営者たちは、猛然と反撃に出て大挙して上京し、各党の有力者と折衝をつづけ、国有化阻止を図るなどの挙に出たが、政府は各党と論議をすすめる傍ら『臨時炭鉱国家管理要綱』に基いて『臨時石炭業管理法案』の具体的成文作業をすすめ、また『石炭非常増産対策要綱』を作成発表した。そして九月には『炭鉱管理法案』を国会に提出するに至った。しかし、連立内閣のため、閣内の民主、協同両党の反対意見にあい、大幅の修正を余儀なくされ、結局、事実上は名目だけの骨抜き国有化となってしまった。
そしてさらに、この実現化の一歩手前で“国管疑獄事件”がおこり、内閣はそれどころではない窮地に追い込まれるに至った。この事件は『昭電疑獄』〈一九四八年、このため芦田内閣解散〉とともに、戦後の二大疑獄事件に発展する。
こうして国管問題は、さまざまな問題と波紋を引き起こしたが、昭和二十四年〈一九四九〉には、出炭量が事実上計画量を上回る成果を見るに至り、二十五年五月には早くも国管法は廃止された。また二十四年九月には配炭公団も廃止され、昭和七年〈一九三二〉の昭和石炭設立以来続けられていた石炭の統制は、十七年ぶりに解除され、石炭商品はようやく自由市場に開放されることとなったのである。
<太賀吉、政界へ>
麻生太賀吉が衆議院議員に立候補したのは、昭和二十四年〈一九五九〉の第三回総選挙のときであるが、福岡県第二区から出馬、八四九票の最高得票で当選した。
そのころ政権を担当していたのが岳父・吉田茂で、その第二次内閣のときであつたが、もともと太賀吉が立候補を決意したのは、少しでも父の助けになれたら、と思ったからである。
そのころは共産党の進出が目覚しく、また下山国鉄総裁の謎の死、三鷹、松川事件など一連の怪事件が続き、政局・社会状況ともに荒れ模様であった。その真只中にあって、六十一歳の吉田が、連日深夜まで内政、外交の全般に頭を悩まし、また総司令部との折衝や野党からの攻勢にもじっと耐えながら、一つ一つの法案を慎重に成立させ、難局を打開していたのである。その姿を見て、太賀吉は少しでも手助けになることができれば、という純粋な気持ちで政界入りを決意したのであった。
議員になってからの太賀吉は、祖父太吉の遺言通りに“程度大切、油断大敵”をモットーに、行動を慎み、専ら吉田総理の秘書役と、外部とのパイプ役をつとめていた。すべてに控えめに行動することを自らに言い聞かせ、本会議や委員会はもちろん、党大会においても、議員在任中の七、八年は、一言の発言もせずに終わった。というのは、もし軽率にものを言えば、それが何処で義父の吉田総理に、何らかの影響を及ぼさないとも限らず、またその発言から、好ましからぬ関係が周辺の人たちとできるというようなことも危惧したからである。
吉田総理のいるところ、いつも影のように麻生が寄り添い、公私に亘って気を配り、また吉田もそれを悦んで受け、何かにつけて、それこそ人に話せないことなども、心置きなく相談していた。
昭和二十六年〈一九五一〉九月に、吉田総理が全権となってサンフランシスコの講和会議に出席し、四十八カ国と平和条約の締結をしたときも、太賀吉は随員の一人として同行している。この時、吉田総理にからまるエピソードがある。
それは講和条約のあと、引き続いて日米安保条約が調印されたときのことである。
吉田総理はアメリカ側に向かって、「この条約は近い将来、日本では必ず問題になると考えられる。だからこの責任はいっさい私一人で負う。従って調印も私一人でやる」と、強硬に主張した。
これに対してアメリカ側はなかなか納得せず、また日本の事情もよく飲み込めないところから、
「それは少しおかしい。他にも池田さんや苫米地さんなど、全権団の人もきているのに・・・。どうしてですか・・・」と、再三にわたり反論してきた。
それに対し、吉田総理は、「目下の両国の事情からして本条約の締結は萬やむを得ないことだが、私の後で政治をする人たちが、この条約に拘束されて、責任を追及されたら可哀想だ。この条約は、できればある時期に、解消したいものだ」と、あくまでも強い主張を繰り返した。
これにはアメリカ側も困却して、数次の折衝を繰り返したものの、吉田総理の決意の固いことを知ると、ついに根負けしたかたちで、調印の運びとなったのであるが、アメリカ側の条約署名者はダレス以下四、五名であったのに対し、日本側は吉田全権ただ一人であった。
このように吉田茂は、先見の明とともに、自分でいったんこうと思ったらテコでも動かない一徹なところがあり、また政治に対する信念と責任感は人一倍であった。こうした吉田茂の人となりを、身近で見ていた太賀吉は、さまざまな示唆と影響を受け、自らの今後の生き方から会社における大小さまざまの業務処理などに大いに役立つことになったのであった。
なお、太賀吉は昭和三十年、岳父、吉田茂の政界引退と行動を同じくし、地元各界からの強い要請も固辞して、以来政界と完全に縁を切って今日に至っている。