<朝鮮動乱>
昭和二十五年〈一九五〇〉六月、朝鮮において三十八度線を挟んで、南北両軍が戦火を交えることになった。これは内戦というより、米・ソ・中がお互いに背後から援助し、果ては前面に押し出してきた形となり、第三次世界大戦の危機の様相すらもはらんでいた。というのは、前年、中華人民共和国が成立し、続いて中ソ友好同盟条約が調印されるなど、世界は社会主義市場と資本主義市場に明瞭に分かれたことから、戦後の国際情勢の変化が著しくなってきたことによる。
そしてアメリカ軍は、日本、沖縄を基地として進発し日本国内は一転して“極東の軍需工場化”していった。つまりアメリカ軍の占領政策が一変して、日本の諸産業の援助、育成に切り替えられることとなったのである。そのため筑豊においても、相次ぐ休閉山に追い込まれていた中小炭鉱が、急速に息を吹き返し、いわゆる炭鉱ブームが再来したのである。
もともと石炭ブームというのは、戦争と結びつく例が多かったといえる。
明治二十七年〈一八九四〉の日清戦争、明治三十七年〈一九〇四〉の日露戦争、大正三年〈一九一四〉の第一次世界大戦という具合に、大体“十年一節”という周期で好況の波が寄せてきていた。ともかくも一転した国内特需産業の大量発注や、朝鮮への石炭輸送の激増で、ヤマは息を吹き返したのである。
ことに中小炭鉱の多い筑豊では、にわか成金が続出した。石炭は掘るそばから飛ぶように売れ、間もなくデコボコのボタ道を外車が炭塵を巻き上げて走り、鉱主たちは御殿のような御宅を建て、別荘もかまえるという、ちょうど昭和四十年代の農家の土地成金のような、辺りにそぐわぬ風景すら現出するようになった。
このころ“筑豊の四天王”〈野上辰之助、武内礼蔵、上田清次郎、木曽重義〉という名が生まれたのも、その派手な行状によるものといわれ、まさに宵越しのゼニは持たないという、そんな風潮を流しながら、湯水のごとく金がばらまかれていた。こうした好況は、昭和二十六年〈一九五一〉戦後最高の四六五〇万トンの出炭量を記録するとともに炭価も昭和二十六年の一年間で、二千円から二千五百円にはねあがった。
しかし間もなく、常備貯炭は一六〇万トンにまで落ち込み、石炭の底が見え始めた。戦前、戦中、そしてこの特需ブームによる乱掘で、そろそろ炭層の涸渇が近づいてきたのである。
そこで今度は水洗業者〈ボタを水洗いして石炭を回収する業者〉や石炭業者までがボタ山の権利を買いあさり、地元だけではなく、関西方面からも続々と筑豊にやってくるという情勢になった。
業者の数は最盛期には百余人をかぞえ、四十万円で買い取ったボタ山が、半年ぐらいで五、六百万円の利益を生むという有様であった。
そしてこれには例えば『化粧炭』とか『掃除炭』『海没炭』『ガイセン炭』などという面白い名称がつけられた。しかしこのブームも、そう長くは続かなかった。
朝鮮戦争が昭和二十六年〈一九五一〉七月に停戦になり、また国際的な景気の退潮や、天井しらずであった炭価に対する反動などにより、翌二十七年〈一九五二〉には石炭産業は下降線をたどりはじめ、不況の兆しが見えてくる。今までくすぶっていたエネルギー革命の火が燃え始めたのである。
<炭労スト>
しかしまたこの頃は、朝鮮動乱を境にして、総司令部の対日政策が一転し、国会では『破防法』〈破壊活動防止法〉が上程され、相次いで“労闘スト”が続発した。つづいてレッド・パージ、血のメーデー事件などが起こるが、石炭産業をかつてない悲況に追い込むきっかけをつくったのが、昭和二十七年秋の炭労大争議である。もともと賃金問題に端を発した争議であるが、労使双方交渉開始の当初から高姿勢であったことからストは長期化して、好むと好まざるとにかかわらず、ヤマぐるみの争議となり、解決の糸口すらつかめない様相を呈してきた。
そのためスト前の全国貯炭量の七〇〇万トンは、十一月末には約六〇パーセントまでに落ち込み、当時も国内エネルギーの八割以上を占めていた石炭の供給ストップは全産業界はもちろん、国民生活に対しても深刻な影響をもたらし始めた。
そこでついに政府は労働関係調整法による史上初の“緊急調整”を発動、炭労も六十三日ぶりにストを中止したのである。そしてこのストライキは産業界に対して深刻な石炭供給の不安感を与え、重油への転換が急速度にはかられてゆく契機ともなったのである。