麻生百年史

第五章 戦中期
炭業第四期時代

54.斜陽の道へ

<筑豊の陥没>

 

朝鮮動乱のブームで、筑豊には三百をこえるヤマが乱立し、一四〇〇万トンの出炭高を誇ったのも束の間で、石炭界は間もなく奈落の底への道を辿り始めるのである。今日のわが世の春は、明日の暗黒の日々に一転していった。つまり石炭一辺倒の依存体制の一角が崩れ、再検討を強いられはじめたのである。それは格安な重油への移行転換であった。重油の輸入は、昭和二十六年〈一九五一〉ごろから増え始め、同二十八年〈一九五三〉には、石炭換算で六百八十万トンもの量が国内に入ってきた。このエネルギーの転換推移の跡をみると、昭和九年〈一九三四〉ごろには、電力、石炭、石油の消費量の割合は、石炭六六パーセント、電力一六パーセント、その他一八パーセントとなっていたのが、昭和二十七年〈一九五二〉には、石炭五四パーセント、電力二七パーセント、薪炭一一パーセント、石油八パーセントとなり、依然石炭に圧倒的な比重がかかっていたものの、その後徐々に電力、石油に比重が移っていった。
そして翌二十八年〈一九五三〉の春になると、貯炭のヤマが随所にみられるようになり、外国炭の輸入、重油への移行が著しく、ストの後遺症なども加わって、炭価は急速に暴落していった。
こうした不況の嵐をまともに受けた中小炭鉱は、従来からのドンブリ勘定的な経営基盤の薄弱さから、ひとたまりもなく揺らぎはじめ、間もなく中小鉱の休・閉山が続出し、その数は二十八年(一九五三)度中、九州では四十鉱に及び、そのうち三分の二は筑豊のヤマに集中した。
そしてこの不況の嵐はその後ますます激しくなり、中小鉱だけではなく従業員が五〇〇人をこえるA級中規模炭鉱にまで波及して、労務者数十二万人が九万人に激減して必然的に多数の失業者を出すに至った。かろうじて頽勢を支えている大手では、まだ閉山までは追い込まれてはいなかったものの、人員整理をはじめとする厳しい合理化が行われ、離職者数は五千名を越えた。加えて労働諸条件の引き下げ、賃金遅配から、ヤマだけに通用する金券の発行、労働時間の延長などと、悪条件が重なり合い、炭界不況は慢性化していったのである。

 

<黒い羽根運動>

 

このような状況のあおりをまともに受けた中小炭鉱の惨状には、目を覆うべきものがあった。しかし政府は、政治的な救済の方途を一時的にしろ、見失っていた。
電気料金未払いのため電気は止められ、暗闇の中で一枚のふとんに家族みんながくるまって眠り、飯のお菜もなく、醤油をかけて食べるという有様であった。学校に行く学童も少なく、登校する生徒のほとんどが弁当を持っていなかった。年端のいかない少女の身売りもこのころ少なくなく、さながら生き地獄の様相を呈してきた。この閉山地帯は「文明の中の避地」とか「死の谷間」「黒い失業地帯」などと呼ばれるようになった。「ザリガニ取って何にする、夕餉のカユの菜にする」などの歌が電灯のない炭住の谷に流れたのもこの頃である。
そして昭和三十四年〈一九五九〉に入ると、ようやく福岡県の母親大会で『黒い羽根運動』が提唱され、以後この運動は全国的な広がりをもって波及していった。これは『赤い羽根運動』や『緑の羽根運動』と同じように、人々から募金によって、閉山による失業者とその家族を救済することを目的とするものであったが、マスコミのキャンペーンをはじめ、世論が急速に盛り上がり、全国から救援物資が続々と現地に届けられた。
しかしこの程度のことで救済できるほどヤマの状態は容易なものではなく、ようやく政府も重い腰をあげ、同年十一月には『炭鉱離職者臨時措置法』を国会に上程、引続きその機関として『炭鉱離職者援護会』〈のちに雇用促進事業団に吸収〉を発足させた。つまり失業者の再就職を斡旋することにより、社会不安を少なくする役目を果たそうとしたのであった。
いっぽう昭和三十四年〈一九五九〉に、石炭鉱業審議会の答申によって、政府は重油と充分対抗できる手段は、炭価を引き下げること以外にないということで、大幅な値下げを断行するとともに、いわゆるスクラップ・アンド・ビルドによって、合理化政策を進めようとした。これによって業界不振の中小炭鉱の整理や、人員整理が急速に具体化していったのである。しかしこれは結果において、スクラップ化された非効率的炭鉱の買い上げばかりが進み、ビルド化の生産構造の建て直しには、ほとんど効果を現さなかった。昭和三十四年〈一九五九〉までに、筑豊においては七十四の炭鉱が買い上げられ、自然消滅した炭鉱は七鉱であった。
このような炭鉱斜陽化の中で、労資の激しい対決が浮き彫りにされ、総資本対総労働の対決といわれた三井三池炭鉱の長期にわたる大争議がその頂点にあったが、もはや石炭界の再建は、ほとんど不可能に近い状態までに追い込まれ、好むと好まざるとにかかわらず、再び引き返すことのない暗いレールの上を滑り出していたのである。

 

<石炭調査団>

 

昭和三十七年〈一九六二〉五月に、有沢広己東大教授を団長とする『石炭鉱業調査団』が発足した。これは石炭鉱業の自立と安定を計る基本政策策定のため産炭地とその周辺の実態を調査しようとするものであった。まず六月から九月までの三ヶ月間、九州・山口の産炭地の実情をつぶさに調査し、その結果を三次にわたって政府に答申した。
これよりさき、昭和三十二年〈一九五七〉の経済審議会では、昭和五十年〈一九七五〉における出炭目標を七千二百万トンとする長期計画を策定していたが、当時の状況からはとうていこのような目標達成は不可能であり、最大限に見積もっても業界を安定させるためには、昭和四十二年度〈一九六七〉において五千五百万トンの確保が限度とされた。
答申案は、炭鉱離職者の再就職という次元の異なる問題を考慮しながら、一人一ヶ月当たり三八・六トンの能率を達成するようビルドアップを促進し、非能率的な炭鉱はスクラップダウンするという、いわゆるスクラップ・アンド・ビルド政策の徹底を骨子とし、昭和三十七年〈一九六二〉から同四十二年〈一九六七〉までに、一千二百万トン分の炭鉱をスクラップとするとともに、石炭関係労務者十七万九千人を十二万人台までに削減るというものであった。
こうして、閉山は中小鉱のみにとどまらず、逐次大手鉱へも波及し、ことに筑豊においては、貝島太之浦、日鉄嘉穂、麻生吉隈などの数鉱を除いて長い歴史を持つヤマの大半がスクラップの対象としてリストアップされ、地元に強い衝撃を与えた。
このように大きな時の流れは、徐々に石炭を置き去りにした形で、エネルギー革命が進行し、結局、石炭政策はスクラップがあってビルドがない“スクラップ・アンド・スクラップ”の連続という皮肉な結果を招きつつあった。
このような答申に対して太賀吉は、あとで次のような感想をもらしている。もっとも太賀吉自身はこの審議会の委員をしていたので、当時はつねに微妙な立場にあった。
「この答申自体は、その時期としてはなかなか的を射たものであったが、あとで考えてみると、やはり中途半端な処置の感は免れなかった。大蔵省は第三次の答申ぐらいの段階では、石炭をビルドアップする資金放出を非常にしぶりはじめていた。極端にいえば、つぶすのならいくらでも金は出そう、その方が長い目でみて得策であるという大蔵省の一貫した方針との折衝に苦労したわけなんだが・・・」と、言っているが、太賀吉自身、自分のヤマを抱えているだけに事態を楽観するわけにはいかなかった。
事実、麻生においても、剣の刃を渡るような真剣な合理化策が次々に計られていたのである。
ことに審議会の答申において、昭和四十二年〈一九六七〉に、一ヶ月一人当たり三八・六トン台の能率達成をビルドアップの条件としていたのに対して、麻生ではまだ二五トン台であったことから、当時残っていた上三緒、山内、岳下、吉隈などの各坑では、可能な限りの設備や技術の改善、機械の導入に全力をあげ、最大限の省力化と合理化が実行に移されていたのであった。

  • 前のページ
  • 目次へもどる
  • 次のページ