麻生百年史

第六章 石炭の終焉とセメント
石炭の終焉と麻生セメントの発足

56.筑豊からの総撤退

近代的採炭機械の導入などさまざまな合理化を計っても、きびしい時代の流れには抗することは難しく、もう今となっては如何にしてこの窮状を傷痕少なく切り抜けるかが昭和四十年代を迎えた石炭界の課題であった。閉山すれば当然多くの失業者がでる。そればかりではなく、石炭産業は総合企業的性格をおびているだけに、他の関連企業に及ぼす影響も大である。

 

そのような折、太賀吉が会長をしている日本石炭協会〈石炭大手十六社の社長で構成〉では臨時評議会を開いて、善後処置を協議した。
そして、「この緊急事態に処するために、各社の利害を越え、共同で石炭産業の在り方を、自主的に検討する」と、決議したのち、
1、 再建の見込みのないヤマの閉山。
2、 出炭計画〈年間五千万トン〉の大幅な縮小。
の方向を強靭に打ち出した。
会議終了後、太賀吉会長は記者会見を行い、「これまでの石炭対策は、各社のいわゆる“お家の事情”を尊重するあまり、どちらかというと総花的に流れた。しかしそのような生ぬるいやり方ではこの現状を乗り切るどころか、共倒れになる危険さえある。だから敢えて“再建”にこだわらず、各社それぞれ思いきった対策の検討をすすめていくことにした」と、業界の苦悩の一端を、率直に述べたのである。
これと前後して、さまざまな再建案が続々提議された。その主なものは、「全国一社化」「大手十六社による共同販売会社の結成」「九州、北海道、常磐の三地域別の炭鉱大合同論」「国有化」などである。
このように自立撤退案から国有化論までとびだす物情騒然たるなかで、結論らしいものは出ないまま昭和四十一年は暮れた。

 

しかし昭和四十二年度〈一九六七〉中に、各社平均の赤字はトン当たり五一七円となり、三月末の実質累積赤字は一、三五〇億円、また借入金の残高は二、三四七億に達し、このうち国の財政資金による肩代わりは八八一億となった。
翌四十三年〈一九六八〉十二月には、石炭鉱業審議会が、次のような新石炭対策を答申した。
1、 再建交付金を支給して、長期債務、退職金、賃金の未払い分に当てる。
2、 安定補給金を大幅に増額する。
3、 鉱区調整、企業統合、共同行為などをすすめ、生産体制を整備する。
4、 閉山交付金を増額し、閉山を円滑にすすめる。
5、 保安対策、鉱害対策、および産炭地域振興策を奨励強化する。
などであったが、再建炭鉱に対する政府の補助や融資は、坑道掘進補助金、元利補助金、経営安定補助金から機械化、近代化、再建資金など数多くにのぼった。
また政府部内には、石炭鉱業再建の臨時措置として、石炭二十七社の異常債務一千億円分を肩代わりする、という案もあったが、すでに石炭界の実情は、それすら受け付けがたいほど悪化していたといえる。

 

かくて、百年の風雪に耐えてきた筑豊炭田にも、その存立を根底からゆすぶるようなエネルギー革命の嵐が吹き始め、三井田川、三菱上山田、飯塚、住友方城忠隈、古川大峰、日鉄二瀬などの中央大手から、地元資本の麻生山内、綱分、大正中鶴など、長い歴史と伝統に輝く西日本の代表的なヤマが相次いで姿を消していくのである。戦後の日本経済復興の旗手としてもてはやされたヤマが、こんなに早く全滅に近い消滅の悲運に見舞われることを一体何人が想像し得たであろうか。
最盛期には三百を越えたヤマも、昭和四十年末には二十四鉱に激減、この間八万人余の人々がヤマを去り、三角錐のボタ山のみが往時の名残を僅かにとどめるに過ぎなくなった。

 

さらに四十七年には最大のビルド鉱といわれた日炭高松、翌年春には旧三井山野の第二会社山野炭鉱、そして筑豊最後の坑内堀り坑となっていた大之浦鉱も、ついに閉山に追い込まれ、筑豊炭田百年の火は、ここに全く消滅し去ったのである。

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