麻生百年史

第六章 石炭の終焉とセメント
石炭の終焉と麻生セメントの発足

57.最後のヤマ、吉隈鉱業所

麻生においても、この間は悪夢のような戦線縮小、閉山の連続であった。
昭和三十六年〈一九六一〉十月には当社最古の歴史を持つヤマの一つ綱分炭坑が閉山したのを皮切りに、翌同年十月上三緒坑、四十年五月岳下坑、四十二年〈一九六七〉六月には山田の各坑が踵を接して閉山のやむなきに至った。閉山に至るまで各坑それぞれ全力を投入して、体質の改善と新鋭機械の導入による合理化を図ったが、時代の波に抗すべくもなかったのである。そして麻生における唯一のビルド鉱として残った吉隈に、文字どおり会社あげての力が投入されることとなった。

 

これより先、昭和三十九年〈一九六四〉九月に、第二次石炭調査団〈有沢団長〉が、吉隈を訪れた際、麻生は調査団に対して大要次のような現状説明と要望を行った。
「出炭は三十七年〈一九六二〉に九十五万五千トンの実績を示し、翌年には約九万五千トンアップしているが、三十九年度の出炭は百二十万トン程度を見込んでいる。この増は、吉隈坑のビルドアップのためである。また能率は、三十七年度二十三・八トンが、三十九年には三十五トンと上昇している。さらに災害防止計画目標を設定し、保安の面でも充分な対策と努力を払っている。こうして当社では、石炭部門の長期安定を目指し、懸命な努力を重ねているものの、財政面においては、石炭の消費構造に変化をきたし、過去の累積赤字のみならず、負債額は増加の一途をたどっている。この資金難が、最大の隘路となって経営を圧迫しているので、この面での政府の援助を仰ぎたい。また合理化をすすめ、効率をよくするために、新技術、最新の機械などを導入するに際しての助成措置も併せて考慮していただきたい」
このような要望を背景に、吉隈だけは何としても守り抜こうと、全社員が力を合わせ、月産六万トンの確保を目標にしたのであった。昭和三十六年の第一立坑開坑に引き続き、四十年にはわが国最大の盲立坑である第二立坑が完成、ホーベルの導入、スライシング採炭の開始、坑外部門の徹底的合理化など、可能な限りの経営努力が重ねられた。また、三十九年九月には従来の『吉隈炭坑』を『吉隈鉱業所』と改称、名実併せた組織の整備強化がはかられている。

 

この間、昭和四十一年には麻生産業からセメント部門が分離独立して『麻生セメント株式会社』が発足、石炭部門は資本金四億円に減資された『麻生産業株式会社』の孤塁に拠り、社内から選抜された最精鋭の陣客によって、一切の雑念を排除しつつ、ひたすら生き残るための努力を払うのであるが、この間の事情については別項において詳述する。なお、この会社分割時、残っていたヤマは吉隈のほかに山田炭坑の一山のみであった。

 

このような狂瀾怒涛の石炭界の中で、昭和四十年三月太賀吉社長は萩原吉太郎北炭社長の後を受けて、日本石炭協会会長の要職に就任、正念場を迎えた炭界の最高指導者として快刀乱麻の手腕を振るった。翌四十一年五月には、畏れ多くも天皇陛下に石炭産業の現状をご進講申し上げ、石炭に対する深いご理解をいただき、まことに恐懼にたえない有難い思し召しをいただいた。
分割直後の四十二年六月には、山田炭坑もついに閉山、残るは吉隈のみという当社石炭史上初の“一社一山”時代に入っていくこととなった。また、輝かしい歴史と、独自の運動方針を誇った麻生産業労働組合連合会も、その存立基盤を失って、同年八月解散するに至った。

 

昭和四十三年〈一九六八〉十二月、石炭鉱業審議会は最後の抜本策として、一千億円の再建交付金の支給、閉山交付金の大幅増額、石炭対策特別会計の三年間延長などを骨子とする第四次石炭答申を提出したが、当時の情勢下では、筑豊のヤマではそれぞれの企業努力も限界点に達しており、この答申がいわば“自決勧告書”となって、企業ぐるみ閉山のなだれ現象を誘発するのである。
吉隈鉱業所においても、このような客観状態の変動に加え、最後の頼みとした浦田八尺層並びに南部砂界層の地質条件の悪化やコスト高など、さまざまな悪条件が重なり、四十四年〈一九六九〉四月末をもってついに閉山のやむなきに至った。明治四十二年〈一九〇九〉の開坑から、実に六十年の長きにわたって麻生の中核として活躍した吉隈も、エネルギー革命の嵐の中で劇的な終焉を迎えたのである。

 

この閉山により、初代太吉が明治五年〈一八七二〉目尾御用山にて“燃える石”の採掘に着手してから百年、麻生の石炭は日本の近代化に数々の輝かしい功績と足跡を遺して、ここに最終符を打ったのである。
閉山式の席上、太賀吉社長は次のように述べている。
「麻生産業株式会社は、昭和四十四年五月十一日で、最終の吉隈鉱業所を閉山し石炭事業に別れを告げました。おもえば明治五年に先代社長麻生太吉が、筑豊炭田で石炭採掘事業に着手して以来、草創当時の個人経営から明治・大正・昭和の三代を通じて今日の麻生産業株式会社まで、時代の変遷、国運の隆盛とともに幾多の試練にも直面したのでありますが、その都度困難を克服して新しい道を切り拓き、発展してまいりました。
第二次大戦後のエネルギー転換の嵐は、当社にも未曾有の難局をもたらし、その打撃は深刻を極めるにいたり、経営安定のため国の補助を受けつつ最大限の努力を重ねてまいりました。
しかし石炭産業の規模縮小の方向で整備する新石炭対策のもとでは、現時点で廃業するのが従業員の皆さんを始め、関係各方面に及ぼす影響が最も少ないと思い、ここに麻生産業株式会社の解散を決意するに至った次第であります。それに現在では、全麻生の全売上げに占める石炭の割合は僅かに五パーセントに過ぎず、石炭は一粒の麦として、その使命を充分にまっとうしたと言えるのではないかと思います。ことにエネルギー革命といわれた激動期の十年間、物心両面にわたり、皆さんには非常なお骨折をおかけしましたが、それに充分に報い得なかったことが、今となっては最大の心残りであります。
当社の石炭事業は、その使命を達成し、九十七年の波乱と起伏に富んだ歴史的使命の幕を閉じますが、石炭からの撤退は石炭による蓄積と信用を基盤として発足したセメントを始め、麻生グループ各事業分野へ発展のための転進であり、麻生グループが今日あるのは、すべて昨日の石炭に負うものであります。そして今日の体験は、明日に生かしていかねばならないと思います。すでに石炭部門から他のいろんな分野にいかれた人、またこれから新任務につかれる人も、当社創業以来の歴史と伝統をますます光輝あるものたらしめるよう、新しい分野で元気に活躍されることを希望いたします。
最後に私が社長についてから三十七年間のながい間にわたり、麻生産業株式会社のためにご尽力いただいた皆さんに、深じんの感謝と敬意を表しまして、ご挨拶といたします」
いく度か絶句しつつ述べられる社長の挨拶に、ヤマ男たちの嗚咽の声が式場全体に拡がっていったのである。

 

このようにして、麻生における石炭の大きな火は、静かに消えていったが、以来石炭にとってかわったセメントを基幹とした関連産業の強力なスクラムによって、“新生・麻生”の歩みが始まるのである。

  • 前のページ
  • 目次へもどる
  • 次のページ