麻生の足跡

飯塚病院

 

 

麻生の足跡−地域とともに−
飯塚病院
 近代化が推し進められた明治の末。筑豊では、古代から続いていた嘉麻と穂波のふたつの郡が合併し、明治29(1896)年に嘉穂郡が発足しました。しかし、郡には学校や病院を開設するだけの財政的な余裕はなく、郡立女学校の創立、郡立病院の開設、郡立農学校の創立という3つの難題を解決できずにいたのです。
 そこで立ち上がったのが、筑豊の炭鉱主でした。女学校は、中鶴炭鉱、新手鉱業所などを有した伊藤傅右衛門が資金を全額提供。病院については、麻生太吉が「郡立病院と同等の機能を持つ病院を建設して、地域医療と住民福祉に貢献したい」と郡議会に申し入れ、満場一致で受け容れられました。(郡立農学校はのちに郡が完成させています。)
 大病院の開設を一任された太吉は、明治43(1910)年、総工費13万6000円(現在の価値に換算すると約15億円に相当します)をかけ、遠賀川河畔の8300坪(約2万7390平方メートル)の土地に1350坪(約4463平方メートル)の病院を完成させました。医療の現場を担う医師も、東京や福岡の大学からの赴任が次々と決まり、いよいよ開院するばかり……となったところで、思わぬ事態が発生します。発足したばかりの嘉穂郡医師会が「大病院に多くの患者を取られると、開業医にとって死活問題になる」と、猛反対したのです。
 反対運動のなかでは、「郡民のために良医を招き、治療投薬の万全を計らんとする」という病院開設に対する太吉の理念さえも、営利を求める事業家の野心の表れと曲解され、攻撃されました。太吉は怒りと悔しさを腹に収め、事業の凍結を決意。竣工したばかりの病院の門扉を固く閉ざします。
 その大病院がようやく日の目を見たのは、完成から8年を経た大正7(1918)年でした。それまで個人経営だった炭鉱事業を株式会社麻生商店として再スタートさせたのを機に、従業員(約7200人)とその家族(約2万3000人)のみを対象とした「麻生炭鉱病院」として開院したのです。診療科目は内科、外科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科の5科目で、ベッド数は120床。現行の医療法でも、前記5科目の診療を行い、100以上の病床を持つことが「総合病院」の条件と定められているのですから、発足当時から堂々たる総合病院だったことがわかります。
 大正9(1920)年には、地域住民からの度重なる受診要望を受け、「私立飯塚病院」に改称すると同時に一般診療を開始。地域に根ざした医療活動が、本格的にスタートしたのです。
飯塚病院
住所:飯塚市芳雄町3-83
電話:0948-22-3800
https://aih-net.com/