

飯塚病院は、昭和35年に飯塚市ほか近隣六ヶ町立の伝染病院隔離病棟を院内に設置、管理運営を全面委託されるなど地域医療との関係を深めながら発展を続けました。ところが、昭和40年代に入ると建物の老朽化という問題に直面します。太吉の跡を継いだ太賀吉はじめ経営陣は頭を悩ませました。公共性の高い事業だけに利潤を追求しておらず、収支はかろうじて黒字になる程度。「巨額の建設費を投じるのはリスクが大きい」という声もありましたが、院長と事務長から「設備投資をしても必ず回収できるし、施設を充実させることは地域の人たちのためになる」と説得を受けた太賀吉は、大改修を英断します。
改修工事は昭和47年に開始。十数年の歳月をかけ、建物はすべて木造から鉄筋コンクリートに建て替え、診療科目も専門化・細分化、最先端の医療機器を完備した最新鋭の総合病院に生まれ変わりました。
昭和57年には「救命救急センター」の設置を受け入れます。
本来、救命救急医療は公立病院が負うべき責務ですが、県立嘉穂病院(現在は民間に移譲)は財政上の理由から「設置不可能」と回答。筑豊には県立病院以外の総合病院は飯塚病院しかありません。救命救急医療だけで見ると赤字は必至でしたが、急患を福岡や北九州まで搬送し、地元住民から「あれでは助かる命も助からん。病人ではなく死体を運んどるんじゃ」と言われていた状況を重視。「急患を受け入れれば毎月200人の命が助かる。金銭面は、その後の入院加療を含めて考えればどうにかなる」と受け入れを決意し、私的病院に救命救急センターを設置するという全国唯一の事例が実現したのです。
「命を救う」という使命感は、いまも受け継がれています。救命救急センターのみならず、診療各科もバックアップのために24時間体制で待機。24時間365日、いつでも専門医の診療が受けられるため、深夜に筑豊以外の地域から受診に訪れる患者も少なくありません。また、日常的な医療の面では、大学病院などで経験を積んできた地元出身の医師が多く在籍しているため、地域の開業医としっかり連携が取れている点も評価されています。
「難しい症例や特別な病気は大学病院に任せ、ポピュラーな疾患に対して高度に対応する」という姿勢を貫き、全国の医療関係者からも広く注目を集めるようになった飯塚病院。「郡民のために良医を招き、治療投薬の万全を計らんとする」という開設の精神を忘れることなく、これからも地域のメディカルセンターとして医療活動を続けていくのです。