麻生の足跡

嘉穂劇場

麻生の足跡−地域とともに−
嘉穂劇場(前編)
 炭鉱主の邸宅や豪華な町屋建築の建物など、筑豊には炭鉱で栄えた往時の面影をいまに伝える建造物が多く残されています。現在でも多様な公演を行い、「生きた文化財」として広く全国に知られている芝居小屋「嘉穂劇場」もそのひとつです。

 嘉穂劇場のルーツは、大正11(1922)年に開場した「中座」です。テレビどころか、ラジオも映画もなかった時代に、「炭鉱で働く労働者や家族を慰労するための娯楽施設をつくろう」と麻生太吉の弟、太七が中心となって株式会社中座を設立。麻生商店の本社内に建設準備室を設け、太七自らが現物出資で提供した土地に芝居小屋を建てたのです。大阪の道頓堀にあった大劇場・中座を模した3階建ての劇場は、建設中から地域住民の期待を集め、六代目尾上菊五郎が出演した華やかなこけら落としの興行以降、ときに笑わせ、ときに涙させるエンターテインメントを筑豊の人々に提供していきました。
 ところが、昭和に入ると大きな不運が中座を襲います。昭和3(1928)年5月に、漏電による出火で全焼。直ちに再建されたものの、新築落成から1年もたたぬ昭和5(1930)年7月には、台風による暴風に見舞われて倒壊してしまったのです。

 立て続けの全壊に出資者はすべて手を引き、もはやこれまでかと思われたところ、伊藤 隆氏が個人での再建に名乗りをあげます。「創設以来、物心両面で惜しむことなく協力してきた麻生一族はじめ関係者の気持ちに、なんとしても報いたい」という義侠心からの決意でした。株式会社中座からすべての資産を無償で譲渡された伊藤氏は、麻生太吉が頭取を務める嘉穂銀行から低金利での長期融資を受け、昭和6(1931)年に嘉穂劇場を完成させました。
 規模を2階に縮小したものの、入母屋造りの堂々たる外観に、直径16メートルの廻り舞台、東西の花道などを備え、明治時代の歌舞伎小屋の建築様式を踏襲する本格劇場として再スタートを切ります。間口10間(約18メートル)もの大きな梁をトラス形式で構築した「柱のない空間」は、最大で1200人を収容することが可能。大衆演劇やコンサート、落語公演などで地域住民に娯楽を提供するだけでなく、現在では、国内外から多くの人が見学に訪れる文化施設にもなっています。
嘉穂劇場
住所:飯塚市飯塚5-23
http://www.kahogekijyo.com/