麻生の足跡

遠賀川改修工事

麻生の足跡−地域とともに−
遠賀川改修工事
 嘉麻市(旧嘉穂郡嘉穂町)の馬見山を源に、福岡県北部の響灘へと注ぐ遠賀川は、筑豊のシンボルともいえる河川です。現在では、春には菜の花の咲き誇る河川敷が広がり、悠々と流れる姿となっていますが、昔は水運の要として大いに利用された反面たびたび氾濫を起こす暴れ川でした。

 度重なる氾濫の主な原因は、標高の低さと曲がりくねった流れ。江戸時代には福岡藩によって何度も治水のための工事が行われましたが、大水による洪水を防ぐには至らず、地域住民の暮らしは氾濫する遠賀川との闘いのなかにありました。明治24(1891)年6月の洪水では、平時は1~2mの遠賀川の水位が9.7mにも達し、民家や田畑を飲み込んだだけでなく炭鉱も多大な浸水被害を受けています。
 水害はその後も続き、明治38(1905)年7月には石炭を運搬するために敷設された鉄道も各地で水没。巨額の損害を被りました。

 そんな遠賀川の状況をなんとかしようと立ち上がったのは、麻生太吉、伊藤伝右衛門ら当時の炭鉱主たちでした。筑豊の商店主などにも参加を呼びかけ、遠賀川改修期成同盟を結成し、政府に働きかけたのです。政府の対応も早く、翌明治39(1906)年4月には10年間の継続事業として遠賀川改修工事を議決。500万円(現在の貨幣価値に換算すると約5億円)の予算を計上します。そして、川の流れそのものを円滑にするため、流路の直線化や付け替え、川幅の拡張を行い、また、堤防の川側を掘り下げると同時に堤防を補強するなど、大水に備えた対策も平行して施しました。

 河川の改修工事では、掘りあげた土砂の廃棄場所が問題になることが多いのですが、当時、炭鉱の町として栄えていた遠賀川流域では石炭の掘削が原因の地面の陥没が多発していたため、その土地を埋め立てるための用土として活用。その対価として石炭や器具などの寄付が集まり、工事を順調に進める助けとなりました。  この第1期改修工事は、大正6(1917)年に完工。川幅は広がり、流れは直線化され、高くて幅の広い堤防が築かれました。くねくねと曲がっていた遠賀川は、現在に近い姿にまで改善されたのです。

 遠賀川の改修工事がすばやくはじまり、順調に工事を進められたのは、炭鉱主たちの結束があってこそ。事業のうえではライバルでも、地域のためには互いに協力しあい、労を惜しむことなく尽力する――麻生もその一端を担ってきたのです。
現在の遠賀川