麻生の足跡

麻生塾

麻生の足跡−地域とともに−
麻生塾
 炭鉱の町として栄えた筑豊で、炭鉱技術者を育てるため、2代目・太賀吉によって設立された麻生塾。戦後の学制改革のなかで麻生塾工業高校に転換され、昭和57(1982)年にその使命を終えて廃校になるまでに、40期、計555名の卒業生を世に送り出しました。
 今回は、麻生塾工業高校の37期卒業生、瀧本和徳さんに麻生塾の思い出をうかがいました。

お話し:麻生塾工業高校卒業生 瀧本和徳さん


 私が通っていた当時の麻生塾工業高校は、他の学校にはなかなか類を見ない校風の高校でした。
 少人数制、全寮制の男子校というスタイルは麻生塾時代から続いていましたし、麻生グループによる経済面の支援も開校当時と同様に続いていました。人数も少なく、私が在学していたときには全学年で40名ほどだったと思います。

 麻生塾は、相当に厳しい学校だったと思います。入学するとすぐ、耳納連山の禅寺で数日間修行を行います。日々の生活も、朝6時に起床してから22時半に消灯するまで、授業以外の時間もすべてスケジュールが決まっていましたね。寮にいるあいだは縦割りで編成された部屋単位で寝食を共にして、学校では学年単位で授業を受ける。自宅に帰ることができるのは、長期の休みと土曜日の午後から日曜日の夕方までだけでした。
 食事や風呂の準備は当番制でしたし、野菜やお茶の葉も自分たちで作っていました。掃除も毎朝徹底的にやっていて、磨きこまれた古い廊下が鏡のようにピカピカに光っていたのを憶えています。生活の面だけでなく、勉強も、クラブ活動も、しっかりやっていたので、卒業して大学に進学する人もいましたし、大会に出場して優秀な成績を収めたクラブもありました。

 もちろん、団体生活のなかではもめごとやケンカもありましたが、同時に相手に対する思いやりもありました。これは、麻生塾の理念がベースにあったからでしょう。
 塾の校訓は「無私」でしたし、「程度大切、油断大敵」という麻生家の家訓も教えられていました。また、寮の玄関には「規律、気合、機敏」という寮訓が、談話室には「一以貫之(いちをもってこれをつらぬく)」ということばがかけられていました。私たち塾生は、日々、そうした精神に触れることで、少しずつ身につけていたのかもしれません。

 当時の横のつながり、縦のつながりは強く、いまだに定期的に集まっているんですよ。在学時にはとくに強く意識することはありませんでしたが、麻生塾工業高校で学んだことの素晴らしさ、得たものの大きさを実感しています。(談)
麻生塾跡地
住所:飯塚市柏の森11-4
見学自由

学校法人麻生塾
http://www.asojuku.ac.jp/