近代から現代にかけて、筑豊の主要な運送手段は「水運」でした。遠賀川とその支流を利用して、「川ひらた」あるいは「五平太船」と呼ばれる船で荷物を運んでいたのです。
江戸時代には、年貢や生活物資の輸送に利用されていた川ひらたですが、明治に入り、石炭産業が盛んになると、石炭の輸送にも活用されるようになりました。筑豊の炭田から、若松の港へと石炭を運んでいたのです。石炭産業の隆盛とともに船の数も増え、最盛期の明治10年代には、およそ9000隻の川ひらたが活躍していました。また、できるだけ多くの石炭をいちどきに運べるように、と、船は大型化。もっとも大きな川ひらたの積載量6トン、中型船でも4トンほどの荷を積めるようになっていたと言います。
しかし、炭鉱に蒸気機関を持つ機械が次々に導入され、石炭の産出量が急激に増加していくなかにあっては、川ひらたを大型化して数を増やしても、輸送力が追いつきません。しかも、筑豊から若松までの往復に10日前後も要する川ひらたでは、時間もお金もかかりすぎる、という問題もありました。
「石炭を運び出せなければ、苦労して掘り出しても意味がない」――筑豊御三家と呼ばれた麻生太吉、貝島太助、安川敬一郎をはじめ、炭鉱主たちは鉄道の敷設を切望するようになりました。とはいえ、鉄道の敷設には膨大な資金が必要です。炭鉱主など地元の資金だけでまかなえる金額ではありませんでした。
そこで、太吉たちは資金集めに奔走します。筑豊の石炭の産出量が多いこと、過去に蒸気機関のポンプが成功していることなどを理由に「石炭を運ぶ鉄道は、必ず儲かる」と、出資を募っていったのです。
そして、明治21(1888)年6月10日、筑豊興業鉄道発起人会によって鉄道敷設を請願するに至ったのです。
※写真資料は直方市石炭記念館所蔵